昼下がりの地獄....

 壁際に立つマルチェロの正面で、貴族の男が子供を弄んでいる。恐怖のあまりこわばる子供に太った指を這わせて楽しむ趣味など薬にしたくもなかったが、同じその手が黄金と地位をこの身に与える権能を持っているというなら、迎合するにやぶさかではない。
 だがこの痩せた子供、震えながらも言いつけを忠実に守って泣きもせずこちらを見つめている子供については? この子供を暇を持て余した貴族のなぐさみものにする権利が彼にあろうか? さて、と彼は端的に考える。
 
「に、さ……」
 
 体の奥を探られて、子供がとうとう声を上げた。感慨もなくその顔を見ながら、その年齢のことを考えた。修道院にやってきたのは五年前。そのおり八つになったばかりであったから、今は十三。それにしては幼い。背も低いし、腕も足も成長期に入るまえの少年の骨ばった印象を持たず、子供時代のままに細い。外で活発に遊ぶという性質でもないようで肌も白く、伸びた髪と線の細い顔は少女のようだ。長い睫毛に涙の露がぶらさがっているさまは絵に描いたよう。か細い悲鳴が泣き声に変わるのに、不機嫌に笑った。
 
「黙らせますかな、閣下」
「いや、良い」
 
 自分のときはどうであったかとマルチェロは思い返す。悲鳴など上げはしなかったし泣きもしなかった。足を広げて誘えもしなかったが、と。そう考えながら、それとはまったく別のことだと囁く声も胸のうちにないではない。自分はあの夜、子供じみた恐れにそそのかされてのことではあったが自ら進んで階段を上り騎士団長の居室の扉を開き、用向きを告げた。だがこの子供は騙されて連れ出され何が行われるかも知らずに行為に引きずり込まれた。なにより重要で決定的な違いは、自分は代価を受け取ったが、この子供の代価を受け取るのはこの子供ではない。
 
「――」

 子供は声を上げて泣いている。行われていることの意味はわからなくとも何か恐ろしいものであるということはわかるだろう。それに、既知の用途とは異なる扱いを受けている器官は、脂肪ののった太い肉の侵入に直裁な痛みを与えられてその確信を深めるに違いない。
 幼い子供を我がために騙して連れ出し、家畜同然に売り飛ばす。これは不法なことであり、破廉恥な犯罪だとマルチェロは考える。ましてやおびき出すにあたってはその子供が己を家族と慕っているその慕情を利用した。まこと醜悪な罪だ。だがそう考えても良心は目覚めない。あるいは自分の母親が強姦同然に仕える主人に犯され側女とされたことが念頭にあって、理性が許す以上に諦観によって許容の幅を広げているのかとも考えてはみたが、どうもそうではないようだ。
 
「―――――ッ…」
 
 甲高い悲鳴が響いた。マルチェロは興味もなくちらりと視線を向け、規則正しくに腰を揺らし始めた貴族の男を認めた。四つ這いに組み敷かれた子供は少女のような整った顔をくしゃくしゃにして叫んでいる。その青い目は涙に濡れそぼりながらも、まだこちらを見ている。助けを求めているのであろうと考えた。
 
 ああそうかとマルチェロは不意に合点がいった。私はもはや権利や義務や善悪といった神の法にかかるものを心からは信じていない。それらはすでに知識として知っているだけのものであって、この胸の中には生きていない。そうしたものは、自らの足で階段を上り部屋の扉を開けて騎士団長に自らの用向きを告げたその夜から死に始めたのだ。助けを求める声も悲鳴も聞き届けられることがなく、救う手もないのだと絶望したことで。その絶望によって。
 
「楽しませてもらった。この始末は…」
「お心を煩わされませぬよう」
「そうか」

 だが、とマルチェロは自問する。それはどういうことなのだろう。善悪を失い信仰を失うということは。絶望という暗い翼は私をどこに運ぶのだろう。どのような風景をもたらすのだろう。この魂をどのように変えるのだろう。マルチェロはゆっくりと寝台に近づいて行って、投げ出されたよう横たわる弟の顔をのぞきこむ。
 子供は青白い顔をして涙の跡は頬の上に幾重にも重なっている。この子供も絶望したのであろうか。家族と慕うものの明らかな裏切りによって心に深い傷を負い、行われた悪臭紛々たる行為に子供らしい信頼を窒息させたのであろうか。膝をつき、呼吸の有無を知ろうと手を翳したその下で長い睫毛が震え、青い目が開いた。黙っていると、こちらを見つめたまま青ざめた唇が動いた。
 
「――め…ん」
 
 かすれた声は聞き取りにくい。だがそれが謝罪と思い至って眉を寄せた。呪詛ならわかる。非難ならわかる。だが謝罪とは。マルチェロの困惑に関わらず子供は切れ切れに続けた。
 
「助け、に、行こうと、思ったんだよ。でも、放してもらえなくて…」
 
 青い瞳、空の色をした瞳だ。この清い目が魔に対して鋭敏であることは知られている。驚きと得体の知れぬ感情とで止まった思考のなかで、マルチェロは自分の唇が問いをつむぐのを聞いた。
 
「なにを見た」
 
 子供は恐れるように小さく周囲を見回した。銀髪が流れ、怯えた鳥の羽ばたきを思わせて青い目がせわしなく瞬きする。その唇からこぼれたかすかな嘆息がマルチェロの冷たい指に絡まった。
 
「――火、が。兄さん、を、巻いてた…。燃える黒い原っぱが…」
 
 言葉の途中でことんと子供は眠り込み、それきり身じろぎもしない。マルチェロは青ざめた顔を上げ、総毛立つ感覚に身震いした。さきほどまで立っていた壁際の一角を見れば、貴族の家にふさわしい高価なガラス窓からのどかな午後の光がこぼれ入り、白亜の床と壁と飾っていた。窓の外には形よく整えられた欅が若葉の枝を張る。そればかり、そればかりだ。
 だがマルチェロは信じた。確かにそこに立つと同時に私は火炎巻く地獄のただ中にあった。そしてこれより歩む地はすべて地獄であり、歩む地はすべて地獄となろう。然り、信仰を離れ罪に罪を重ねてほかのどこへ行けるというのだ。子供が絶望するであろうと思っていた。己に救いを求めていると思っていた。だが子供は救おうとしていたのだ。そして真に絶望し、真に救いが必要なのは己だったのだ。なんという皮肉、なんという逆説。
 
「おまえは正しく見た」
 
 マルチェロは囁いた。眠る子供は身じろぎもしない。喉元まで浮かびかけた祈りの言葉を無音のうちに縊り殺し、唇を枉げて笑った。
 
「――だが、それがどうだというのだ」
 
 そしてマルチェロは上着を脱ぎ、それで弟をくるんで抱き上げた。歩き出せば長靴の踵は石造りの床を打ってその響きは長く反響した。
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