After the day....

 エイトは顔を上げた。夕暮れは平たく開けた野原に広がっている。西の地平に薄く浮かぶひとひらの雲は赤光に照らされ、その縁は輝くようだ。だが暮れ方の風の冷たさ。容赦なく叩きつけ肌から温度を奪っていく。エイトは上着をしっかりと身に寄せると、丘の上の小さな家に向けて再び歩き出した。その家は白壁に明るい光を受けて燃えているようだ。
 マルチェロの火刑から二月ばかりが過ぎていた。トロデーンの内政に忙しかったエイトは、その経緯をよく知らない。しかし教皇殺害犯として、ゴルドにおける暗黒神復活の責を負うものとしてマルチェロが追われる身であったことは知っていたし、その追跡の手から逃れられるものではないということも承知していたから、意外の感もなかった。もしもあったとすれば、それは、やはりマルチェロを探していたはずのククールが、この一連の事件の中でどのような役割も果たさなかったことについてだ。
 パルミドの情報屋に使いにやったヤンガスがククールの所在を聞いてきたのはつい数日前のことだ。そしてエイトはリブルアーチから数里ほど離れたこの荒野の家にやってきた。今はこうして最後の小道をたどっている。だからといって言うべき言葉が見つかっているわけではない。
「……よう」
 頭の上から降ってきた呼びかけに、エイトは足を止めた。夕日に照らしだされて立っているのは良く知る銀髪の青年だ。その顔の上の笑みも。
「久しぶりだ、エイト。あれ、気づいてなかったのか? おまえがこっちに歩いてくるのをずっと見てたんだぜ、俺。町の方から原っぱを横切って、丘をのろのろ歩いてくるのをさ。ここからは何だってよく見えるから」
 エイトはしばらく答えず、目の前の青年を観察した。冗舌は記憶の通りだったが、着込んでいる衣装は騎士服ではない。修道士が着るような、粗い織りの簡素な灰色の衣と、縄の帯だ。
「どうした? なんかおかしいか? 俺の男前っぷりに見とれてんの?」
 エイトはゆっくりと首を振る。ククールがまた笑った。そして先に立って、扉を開けると小さな家の中に招いた。
「用事はだいたいわかってっけどさ。入れよ。俺もいいかげん冷えた」
 エイトは黙って従った、小さな家の内部はいっそう小さく、だが暖炉に赤々と燃える火で心地よく温まっている。エイトが上着を脱いで椅子の背にかけるあいだ、ククールは暖炉の上から今しも湯の沸いたばかりの鉄瓶を取って大きめのポットに注いだ。おそらく遠くに自分の姿を認めたときから迎え入れる準備を整えていたのだろうとエイトは思う。遠くの方からだんだんに近づいてくる自分の姿を、この銀髪の友人はどのように待っていたのだろうと考えて、ふいに胸をしめつけられる。
 だがそれは言うべきことではなかったし、言うほどのことでもなかった。エイトは椅子に座り、ククールがポットを傾けて、湧き上がる湯気とともに二つの茶椀に熱い茶を注ぐのを見た。
「良く来てくれたよな。こんな辺鄙なとこにさ。トロデーンの方はどうだよ。ミーティア姫は元気か? 双子のチビは病気してねえ?」
 なんとなく頷いて、エイトは黙って椀を取る。熱い茶は臓腑に染みた。余計なものなどない小屋の中に茶碗が二つあることも、椅子が二つあることも、エイトはさして不思議に思わなかった。見上げれば、壁の上には真鍮の三叉が、窓から真っ直ぐ射す夕陽に赤く光っている。
「兄貴を見つけたのも、こんな夕暮れだったよ」
 ククールの言葉が耳に届いた。嘆くようでもなく、悲しむようでもなく、ただ静かに語る声。それゆえに深い影のような。エイトは向かいに座る友人を見ず、三叉を見ていた。そのほうがいいだろうと思ったからだ。
「こんな夕暮れだった。おかしなことだが。マイエラでさ、生まれて始めて兄貴に会ったのも夕暮れだった。あいつが優しく笑う顔に、斜めに光があたっていたのを覚えているよ。ゴルドであいつを倒したのも夕暮れで、あいつの背中が夕陽に照らされながらだんだん遠ざかってったのも覚えている。そのあと……この家であいつを見つけたのも」
 言葉は、しばらく続かなかった。エイトは黙って待った。苦笑するようなため息の気配があって、それからククールの椅子がかすかに鳴った。
「あいつはこの家の前に立っていたよ。俺が来るのは、遠くのほうから、もうわかっていたはずだ。あいつは、兄貴は。だけど逃げもしなかったし殴りかかってもこなかった。夕陽の中で照らされてあいつの髪が燃えるように光っていたよ。俺はここに住み着いてさ、二人でしばらく暮らした。あいつは無愛想だったが、俺を追い出そうとはしなかった。腹の中では何を考えていたのかわかんねえけどさ」
 今度こそ長い沈黙が落ちた。それは回想によるものだろう、とエイトは考える。おそらくククールの脳裏をめぐっているのはこの小さな家の中で兄弟が暮らした時間や日々のことであろう。あのマルチェロとの生活がどのようなものだったのか、エイトには見当もつかなかったが、意外にも平穏でなにほどもないものだったのかもしれないと思った。
「あいつと別れるときも、夕暮れだった。あいつは、何も言わなかったよ。いや、違う。言ったんだ。信じられるか、あいつは震えてた。震えながら俺の頬に触れた。陽がさして、あいつの緑の目が明るかった。あいつは言ったよ。『ようやくわかった。私はもう行こうと思う』。俺はわけわかんなかったよ。今もわかんねえ」
 かすかなすすり泣きが聞こえた。エイトは黙って壁の三叉を見る。光はしだいに色あせ弱まり、残照の残照とでもいうべきものとなりつつある。
「家の外を教会の僧兵が取り巻いていた。地面なんて見えないくらいに押し寄せて来ててさ、でも俺は逃げれたよ。逃げるのが嫌なら戦えた。だけど兄貴は言ったんだ。『もう行こうと思う』…ってさ。えらく真剣な目をしてよ。俺は何も言えなかったよ。あいつは扉を開けて、出て行った」
 それきり聞こえてくるのはすすり泣きの声ばかりだった。エイトは黙り、友人の悲嘆を聞きながら、もう遠い日にゴルドで見たマルチェロを思い出そうと試みていた。黒髪と傲慢な緑の目と、だがその奥の痛切な光。喪ってはならないものを喪い、けっして取り戻せないものを取り戻そうとあがく者の目ではなかったか。諦めをうべなわない者の。
 その男が自ら槍衾に向かって歩み出すために、いったい何をわかればいいのだろうか、とエイトは考える。神などいないということか、秩序や救済が存在しえないということか。それとも、まったく逆のこと――信仰の完全性か。神への完全なる信頼か。だが問うことはすべて空しい。
 エイトはのろのろと前へ向き直り、肩から提げたカバンから小さな壷を取り出した。机の上に置くと、ことんというかすかな音に、うつむいていたククールが顔を上げた。まだその頬の上には涙の跡が光っている。
「エイト?」
 目だけで促すと、ククールは壷を手にとった。密封された上蓋を開くと、中に詰まった白い灰があらわれる。ククールがかすかに震えた。それはヤンガスが短い伝言とともに情報屋から預かってきたものだ。どのようにしてそこまで流れ着いたかはエイトの知るところではない。だがエイトはそれを届けるためにこの家まで来なければならなかったのだし、だから来たのだ。エイトは黙って、色を失って震えるククールを見ていた。
 青い瞳が震えるようにエイトを見た。震える唇が開き、だが言葉を見出しかねるようにまた閉じる。幼い子供の拒絶のように首が振られた。
「いやだ。…いやだ。いやだ!」
 慰める言葉があるとは思われなかった。エイトは黙って友人が泣くのを見ていた。その涙が、その慟哭が収まるには、長い時間が必要だろう。そしてその傷が完全に癒えることはない。その悲しみをともにすることが誰にも不可能であることも確かだった。エイトは手を伸ばし、ククールの手をとった。冷たい指はエイトの手を握り締めた。
 夕暮れは色あせ、夜の暗がりが世界を包もうとしている。部屋の中の暖炉の炎は明るく燃えて、ククールの髪を照らしている。朝になったら、とエイトは考えた。朝になったらククールを連れてトロデーンに行こう。そしてミーティアの膝からやんちゃな双子の赤子のうちの一人をとって、こいつの膝の上にのせてやろう。



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