Angel....
 
 靴音が響いたのはそのときだった。靴音。大扉からではない。奥まった小さな扉、その存在さえ知るものの少ない祭壇横の秘密の通路。頭を廻らしたマルチェロが見出したのはだが天使ではない。いわんや――
 
「おはよう、兄貴。もう用事は済んだかい?」
 
 影から歩み出た銀色の髪の少年は尋ねた。昨日の朝もそうやって挨拶したとでもいうような軽快さで。明朝もそうやって挨拶するのだとでも言いたげな明るさで。だがそれが装われたものであることはあまりにも明らかだ。最後に見たときより大人びた顔の上には、不眠と憔悴の跡が刻まれている。
 
「騎士ククール、私の火葬を見たいなら――」
 
 マルチェロは静かに言った。
 
「少しばかり早すぎる。そしてその場所も間違っていると指摘しておこう。北の高台にすでに薪と油が準備されているはずだ。もっとも、今からではすでに良い席は取れまいが……」
 
「ふざけるな!」
 
 鋭い怒声が空間を走り抜けた。マルチェロは弟を見下ろし、立ち上がった。時刻に遅れる気はなかった。段を降りる足音が響く。下り終えたところに待ち構え、立ちふさがっているのは銀の髪、薄青い瞳をした弟ククールだ。まとった赤い衣そのままに怒りに震えているのが見て取れた。
 
「ふざけるだと? いいや、私はふざけてなどいない。私はこれから火刑場に赴く。私は焼かれ、その灰は埋葬されることなく四つ角に打ち捨てられる。それで終わり、それですべてにカタがつく。そこをどけ」
 
「すべてだと? いいや、そうじゃないね。それじゃ終わらない」
 
 伸ばされた手が右腕を掴んだ。マルチェロは黙って弟を見下ろした。青と緑の瞳がそれだけの距離を隔ててぶつかった。
 
「あんたは賢いつもりでいつだって抜けてる。わからないのか? それじゃ何も終わらない。それじゃカタはつかない。あんたを死なせやしない」
 
「おまえはかつて、自らの正義を信じ世界を破滅から救うと信じて私に挑んだ。だが今いったいお前はいかなる権限があってそこに立つのだ? 罪人マルチェロの火刑を正当と定めた教会の意志、人々の意思を翻すいかなる根拠を持っていると申し立てるのだ?
 今もゴルドに蹲るあの奈落に落ちたものたちを呼び返せるとでもいうのか? 起きたことを消し去れるとでもいうのか? いいや、死者は帰らず、この手の犯した罪は神の前で常に私一人のものだ。その手を離せ。外では貪欲な炎と復讐を叫ぶ群集の輪が私を待ちかねている。待たせるわけにはいかぬのだ」
 
 だがククールの手は緩まず、兄は今や弟を力づくで突き放すことはできないことを知っている。マルチェロは黙って眉を寄せた。ククールは掴んだ腕をその兄ごとに引き寄せた。青と緑を隔てる距離はかつてなく短い。互いの頬に吐息の届くほど。
 
「――救済も劫罰も、神に返せ」
 
 ククールの声は低い。低く、激情を抑えて語られる。
 
「あんたは償い始めてさえいない。そうやって他人事みたいに切り捨てて体よく見限るな。罪と血に汚れてもあんたの魂だ。俺は見捨てないぞ、あんたが見捨てたってな」
 
「おまえの言葉は言葉に過ぎぬ。さあ、手を離せ。私を私の道に返せ。死ぬに任せろ、あれほどおまえを苦しめた相手ではないか」
 
「いいや、マルチェロ。俺はあんたを行かせやしない。死なせやしない。償え。泥を噛め。今こそ他人事のようにではなく生きろ」
 
「これまでも泥を噛み血を流してきた。そして挙句にここにいるのだ」
 
「いいや」ククールは言った。
「いいや、あんたはなにひとつ、なにひとつ本当に願ってやしなかった。だから本当に苦しんだことだってない」
 
 沈黙があった。しばらくの沈黙があった。怒りがマルチェロの身内に煮えたぎり、緑の目は牙さながら険しく殺意さえ剥いて間近い弟を貫いた。その激しさにククールはわずかに目を細めたが、その手を緩めようとは露ほども思わなかった。もう後はない。もう未来はない。長い長い夜のあいだに無数の思いの小道に分け入り、迷いに迷い、悩みに悩み尽くして朝に至った。そして今ここで兄を手放せば再び見出しえないことは明らかだ。どちらも引かない長い沈黙のすえ、ついにマルチェロの瞳のうちで怒りが揺らぎ、そしてその目が伏せられた。
 
「あるいは、そうかもしれぬ」
 
 マルチェロは呟き、苦く笑った。かつて暗黒の杖がつけこみ、その悪意が膨れ上がらせた憎悪が己の主人として君臨したことを思い出したからだ、偽りようもなく。忘れようもなく。
 
「――だがもう遅い。もうすべては遅い」
 
「あんたは急ぎすぎる。まだ火の手は上がっていない。まだここは火刑場でさえない。やりなおせるとも」
 
「この土壇場にニノに頭を下げろというのか。命ごいをしろというのか」
 
「そうだ、泥を噛むとはそういうことだ」
 
 再びマルチェロの目の中に怒りが煌いたが、それは先ほどよりはよほど弱く、よほど短かった。それはかつて見たことのないもの、かすかな不安とでもいうべきものに座を譲ったとみえた。マルチェロは高い窓に視線を向けて呟いた。
 
「奇妙なことだ。奇妙なことだ――衣もなく裸足で立っているように頼りなく、この身が傷つきやすくなったことを感じる。死と火を眼前としていたときには裸足でいてさえ何一つ恐れはしなかったのに」
 
 マルチェロは光の方に向けた顔を静かに伏せた。
 
「だが死者の声はいよいよ大きく、その苦悶の響きは私の背に重い。このような罪を負って生きることができようか。火による死を他にして贖いを見出せようか」
 
「俺がいるよ、兄貴。俺がいる。二人ならきっと見つけられるさ」
 
 ククールは再びこちらに返された兄の緑の目の中に、これまで見たことのない静謐さと苦しみを見出して胸打たれた。なんという重荷を負わせたことか。その前になんという険しい道を自分は引こうとしていることか。だが引き返す気はない。ククールは頷いた。
 
「一緒に、行こう」
 
 マルチェロはその面にかすかに微笑を浮かべ、それから手袋を外した。現れた力強い手は優美にまた確かにククールの方に伸ばされて、その頬にそっと触れた。弟は、兄の唇がかすかに動いて声なく古い詩篇中の一句を刻むのを見た。
 
 ――見よ、私は天使を見出した。
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