黄昏....

 部屋の中には誰もいない。長方形の窓から差し込む夕刻の光はすでに長く、古い木の机の空っぽの表面を斜めに明るく浮き上がらせていた。
 手紙など見出されはしなかった。ついに一つの言葉も残されてはいなかった。ククールは机の上に左手を置いて、呆然として頭を垂れた。
 マルチェロが自ら縊れて死んだのは昨夜のことだ。死に顔は不思議なことにククールの記憶には残ろうとしなかった。どんなにしても、最初に見出した揺れるつま先しか思い出せない。死者を梁から下ろし、寝台に寝かせて夜中祈りを捧げ、朝とともに凍てついた丘の上に葬ったことは順序正しく頭にあるのに、その風景の全ては消されたようだ。
 兄はなにをどう悩み、どのようにしてあの輪にした縄のもとにたどりついたのか。また何を思いながら最後に踏み台を蹴ったのか。遺言もなく走り書きもなくそしていくら考えても、その兆しさえ思い当たらぬ。
「あんた、死ぬことを決めたときでさえ俺を許してくれなかった」
 ククールは囁いた。音もない嵐が胸の奥から吹き上げてくる。喘ぐような息が喉から漏れ燃えるようにまぶたは熱い。荒涼とした冬の風はしだいに夜の嵐の前触れを響かせ始める。しかもその長い夜のどこにも、もう兄はいないのだ。
 ククールは両手で顔を覆い、声もなく喚いた。夜は明けぬであろう。冬は果てぬであろう。この悲嘆は根雪のごとく心に住み付きいかなる芽生えも許さぬであろう。帰るべき家も郷里も持たずともに行くべき伴侶を持たぬもののごとき寄る辺なさは消えぬであろう。閉じたまぶたから涙はこぼれ流れ、木目の上に滴り落ちて翳らせる。
 そしてまた、昨日のこの時刻、この場所で、一人の男がやはり物思いに満ちて立っていたことは誰にも知られることはないであろう。その男がペンもインクもなく一つの意志を残したことは気づかれぬであろう。己が命を絶つにあたり、埋葬を許すことによって半血の弟に残したその真意はついに汲まれぬであろう。
 雪が降り始めた。
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