Crap!....

拍手御礼第7弾
【その1】
 太陽は西の地平にかかり、その光はトロデーンの王宮を揺らめく黄金に染めていた。真夏の長い日はようやく暮れかけていた。エイトは裏庭のトマト畑にいて、畝のあいだの小道を通って重たげに赤青の実をつける植物を見て回った。通り過ぎていった夕立に濡らされた土の湿りは快く、むっとする熱気がこもり、絡まりながらつるを巻いて伸びたつものの気配が満ちている。
 畑を作ったのは五年前のことだ。今は国王の補佐であり、また彼の妻であるミーティアが双子を生んだ年の春だった。彼女は初めての妊娠にあたってひどくトマトを欲しがったから、エイトが兵士を訓練する合間を縫って土を耕し、畝を盛り、幾つも苗を植えたのだ。最初の実がなったのはもう臨月のころだったが、口の周りが汚れるのも構わず、土を洗い落としたばかりの野菜にかじりついた妻の顔は子供のようだった。彼女はすぐに茶目っ気たっぷりに笑っていつもの言い逃れを口にしたが。―「馬だったときのくせが出てしまいましたわ」。
 人の背丈ほどの緑の垣根の向こうから、笑い声が聞こえた。はしゃいで駆けているのは双子の弟だ。少し離れて明るい笑い声を上げる妻と双子の兄が追いかける。名を呼ぶ声が聞こえたから、探されているのはどうやら父親のエイト自身だと知れた。緑の向こうにちらりと見えた母子の姿はとても楽しそうだったから、自分もちょっと茶目っ気を出して、エイトはしゃがんで隠れた。
「おかーたん、おようふく、ひっかかっちゃった。びりっていったの」
「おとたーん、どこー」
「おかーたん、りゅうになって、ぱたぱたって、してもいい?」
「羽を引っ掛けないように気をつけてね」
 母親によく似た色白の兄に比べて、弟はより強く竜の血を引いている。三つになったばかりのころ、兄弟喧嘩であんまり腹を立てた弟が、どういうわけか突然カボチャくらいのサイズの竜に変化したことがあった。周りはもちろん驚いたが、一番ひどく驚いたのは本人だったろう。畑の農機具置き場の隅に逃げ込んで、エイトが見つけたときは尻尾を丸めて眠り込んでいた。それからは時々、その能力を指導するためといって曽祖父にあたるグルーノが城にやってくるようになった。初め、その訪問は人の世に育つ竜の子を危ぶんでのことであったかもしれないが、子供たちはこの幸福でおおらかな国と、はかなげに見えて動じない母に守られて健やかに育ち行き、老人の指導とやらも今ではかわいくてならない曾孫を訪れる口実でしかないようだ。
「おとたん、みちけたー」
 ぱたぱたという幼い羽の音に顔を上げると、小さなオレンジ色の竜が不器用に空にかかって、こちらを見下ろしていた。小さいながらに鱗も備えた竜は短い首をひねって、さあどうだとでも言うように、子供の得意げな笑いを見せる。
 エイトは笑って、手を伸ばした。
「よく見つけたね。そら、おいで。抱っこで母さんのところまで行こう」
「わあい」
 どしんと胸に飛び込んできた小さな竜はそのまま彼自身とよく似た子供に変わり、幼い顔に幸せそうな満面の笑みを浮かべた。その柔らかい頬に音をたててキスしてやって、エイトは立ち上がった。近づく母子の足音はもうそこまで来ている。来年は、と、エイトは考えた。キュウリも植えよう。それからナスも。

【その2】
 その夜、ヤンガスはひどく酔っ払って、寝台まで弟分六人がかりで担いで運ばれるはめになった。強いはずの酒だったが、その夜に限ってはまるで正体をなくした。後になって、真夏の一日を太陽に照らされて働いたあとで、ついついビールが進んだのだと頭を掻き掻き言い訳してみたが、なにもかも顔に出る正直な自分のこと、そんな嘘では鼠一匹騙されないだろうことは承知していた。
 実際のところは、その夕刻、一通の手紙が舞い込んだのだった。上等の白い封筒で、宛名の筆跡は流麗だが差出人の名前同様に心当たりはなく、ヤンガスはなんの気なしに封を切った。なんの、ミミックも同然のトラップだった。
 厚手の上等な便箋の上の文字は、もう四年も前に行方知れずになった女盗賊の素っ気無い素早く書かれた筆跡で、署名もそうだった。女が行方知れずになった理由は当時ヤンガスにはさっぱりわからなかったし、今もそうだ。
 ずいぶん昔、ヤンガスはまだ洟垂れのころに女に惚れたが、取ってくると約束した宝石を手に入れることができず、会わせる顔がないと町を出た。それから暗黒神を倒す長い旅で再び出会い、そのときは例によってぶっきらぼうな「返しに来い」という言葉とともに贈り物さえくれた。ああ、俺はこいつのために世界を救うんだなどと気負ったものだ。だが返しに行けば元の木阿弥。なにをそんな高飛車に出ることがあるんだとむかっ腹を立てて、借りたものを返すだけ返すとさっさと帰ってきた。それで女がどうしたかというと、昔と大して変わらない。
 要するに不機嫌なのだ。パルミドの町中で顔をあわせてもつんと顔を背けるだけでろくすっぽ返事もしない。それでもたまたま酒場で並んだのが、女がいなくなる前の晩で、そのときの会話はよく覚えていない。その晩、女はやさしかったとは言えないまでも、珍しく頭からバカにしはしなかったような気はする。だが翌日、似合わぬ花の代わりにカゴに盛った採りたてのリンゴなど抱えて訪ねてみれば家はもぬけの空だった。
 それで、手紙だ。内容はごく簡単、『サザンビークにて、ゲルダ』。どうしろともどうするなともどうして欲しいとも一言もない。考え込んでいるうちにビールとワインと蒸留酒のビンが机の上でダンスを踊り始めたというわけだ、わかったか。
 酔いつぶれた翌日、ヤンガスは二日酔いの頭を引きずって、裏商人の木戸を叩いた。陰気でカビのにおいのする奥まった小部屋で、素顔を見せない裏商人は紙片をためつがめす見てから重々しいため息をつき、言いにくそうに言った。
「すぐにサザンビークに行けよ、ヤンガスの旦那。もう遅いかもしれねえが」
 すぐに行ったサザンビークにゲルダはおらず、ただ宿屋の主人が預かったものだと言って封筒を出してきた。内容はごく簡単、『リブルアーチへ、ゲルダ』。
 くそったれと叫んでヤンガスは駆け出した。

【その3】
 午後一時、リーザス村はうだるような暑さだ。真夏の午後の日差しが照りつける表には人っ子ひとりいない。犬猫さえ軒下に隠れて暑さのあまりのびている。
「ゼシカ、オレンジを切ったわよ」
 昼食を終えて、二階の露台に出した椅子で本を広げていたゼシカは顔を上げた。アローザが陶器の皿を持って白木の階段を下りてくる。
「こんな暑い日によく本を読めるわね」
 小ぶりなテーブルの上に置かれた陶器の皿は白い地の上に緑の素朴な線画が描かれ、その上に半月に切ったオレンジが盛られている。一つひとつの粒が水気を含み、厚めの皮はあざやかに白い。手に取ればよく冷えていた。
「おいしそう」
「おあがりなさいな」
「イタダキマス」
 かぶりつくと、口の中に冷んやりとした果汁が広がった。酸っぱい甘さと、弾力のある薄皮の歯ごたえ。アローザが笑った。
「子供じゃないんだから、ゼシカ。そんな食べ方をして」
 こんなふうに母親と話せるようになったのは、つい最近のことだ。旅の前は反発する方に忙しく、旅から帰ってからは魔法学校の開設準備や運営や生徒集めに忙しかった。学校もなんとか軌道に乗り始め、ごくまれにはこんなふうにのんびりする暇が取れるようになったのが、昨年ぐらいのことだったから。
「ね、母さん」
 ゼシカは水を張ったたらいから足を上げた。もうすっかり温んだ水が素足の先からいくらか垂れて、乾いた露台に丸い模様を作った。頭上を覆うのは葡萄を這わせた棚だ。日差しを遮り、秋には実もつく。アルバート家は実際家だ。
「秋になったら生徒たちが帰ってくるわ。それまでに、旅行でもしない?」
「いいわね、涼しいところがいいわ」
「うーん、オークニスとかどう?」
「かあさん、涼しいところって言ったわよ」
「涼しいわよ」
「寒いの間違いでしょ」
 ゼシカは笑ってもひとつオレンジを手に取る。
「そういえばこのオレンジはどうしたの?」
「ポルクとマルクのお土産よ。航海から戻ったって昨日、あいさつに来たの」
「あら、そう」
「あの子たちも立派になったわ。夕方にでも顔を見せに行ってらっしゃいな」
「そうね。ああ、ねえ、かあさん、リブルアーチはどう?」
 そういえば、母は知っているのだろうかとゼシカはふと思った。リーザス像を作ったアルバート家の祖先リーザスがリブルアーチの出で、そもそも暗黒伸を最初に封じた魔剣士シャマルの末裔だったことを。多分、話してない。あの旅のことも、そういえばほとんど話していないような気がする。こんなに毎日、顔をつき合わせているのに、と、ゼシカは不思議な気がした。そういえばわたしが旅をしていたあいだ、母さんがどんなふうに過ごしていたのかも聞いてない。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「リブルアーチで、兄さんの石像を作ってもらいましょ。お得意のポーズで」
「まあ、この子ったら」
 アローザが吹き出した。

【その4】
 ラパンはもう死ぬところだった。そんなことは、医者がなんとごまかしたって、そうそういつまでも隠しておけるものではない。一月ほど前から病は重く、もう友の会会長の役目も果たせなくなっていたのだし、ここ数日は窓から見る空が青く真夏の太陽がぎらぎらと輝いていても少しも暑さを感じなくなっていたから、いよいよそれははっきりしてきた。
 さて、明日の朝までもつかどうか、とラパンは考えた。灯りをともした部屋から下男のパンチョは下げた。もう何日もつきっきりで、かえってその善良な丸顔がやつれてしまっていたからだ。だがパンチョは眠れないだろう。
「――キラーパンサーたちが鳴いておる」
 ラパンは弱々しく囁いた。夜半の空気に低い唸りや切れ切れの叫びが満ちている。嘆いているのだ。パンチョもおそらく群の中にうずくまり、鳴けぬ心の内を抱えてまんじりともせずに夜を明かすだろう。だが別れは来るのだ。望もうと望むまいと、時が満ちれば。ラパンは仰向けに寝て目を閉じている。
 時間は音もなく過ぎて、揺れる灯火は次第に弱まり、そのうちふっと消えた。外ではもうキラーパンサーの声も絶えた。時刻は夜明けの前であろう。ふいにラパンは何かの気配を部屋の中に感じた。
 そのころにはもう、ラパンの手足も目や耳も死んでおり、まだ生きているのは心臓とわずかばかりの思考、それだけだ。それだけのわずかなものが、寝台に近づいてくる気配を感じた。懐かしい気配、懐かしい息吹だ。
 それが誰か、また何かをラパンは知っている。そうすることができたなら、声に出して呼んだだろう。バウムレン、旧き友よ、わたしを迎えに来たのか、と。そして手を伸ばして先に死んだ獣類の友の温かい毛皮を抱きしめただろう。
 どちらもこのときラパンにはできることではなかった。少なくともそのはずだった。それでいてラパンの発されなかった呼びかけはバウムレンに届いたし、伸ばされなかった手もまたバウムレンの首にかかった様子であった。驚いて目を見開き、体を起こせば、そうすることさえできた。
『さあ、行こう。友よ』
 腕の中で青白く輝くバウムレンが言った。ラパンは自分もまたそのように輝きを帯びていることを知った。深く深く息を吸い、また吐く。肉体とは別種の粒子からなる体はあるいは霊魂と呼ばれたかもしれない。
『長いあいだ、待たせたのう』
『なんの、永遠ほども時はある』
『そうじゃのう、語りたいことがたくさんあるよ』
 ラパンは囁き、立ち上がった。バウムレンは先に立って歩き出した。視界の先には輝きの道が開け、それは遥かな高みに続いている。長い道だが、友と連れ立ってゆくなら長すぎるということはない。
『行こう、友よ』
 そして一対の友達は歩き出した。

【おまけ】
 ヤンガスは駆けていく。もう世界の大部分を駆けてきた。サザンビークを皮切りに、リブルアーチ、オークニス、戻ってベルガラック、サヴェッラ、アスカンタ、ひとっとびに三角谷、そして。
 息つく暇もなく飛び回って、残っているのは何枚かの手紙だけだ。いつだって、探し回って息せききって扉を開ければ手紙の主はすでにない。宿の主人や店の女将が「おや、間が悪いこと。あのひとは、ついさっき出て行ったところだよ」と言うだけだ。そして必ず手紙を差し出すのだ。いつだって短く、白い小さな紙片に次の行き先と名前だけが書かれた手紙を。そうだ、まだ封が濡れていたこともある。
 もうやめた、と、ヤンガスが腹立ちまぎれに怒鳴ったことがないわけではない。ときには何日も、一度などは一月近くもふてっくされて飲んだくれていたこともあ る。それだって当然といえば当然だ。最初の手紙を受け取って、もう一年になる。本当にやめてしまわなかったのがむしろ不思議なほどだ。
 それで、話を戻そう。ヤンガスは駆けていく。今度の行き先は砂漠の教会だ。美しい晩秋の赤や黄に染まったマロン湖のほとりを抜けて、肥沃な大地と乾いた砂の王国を隔てる切り立った山脈にできた、天然の切り通しを駆けていく。長い旅のあいだにいくらか痩せたが、それでもまるまるとでもいいたいような体型は変わらない。曲がりくねった切り通しの道を抜けていくと、次第に大気は乾き、ほこりを含み始める、足元は土ではなく小石まじりの砂地になり、それもだんだん深くなる。両側に山々がふいに切れれば、視界の果ては一気に遠く、砂の大海がどこまでもたたなっていた。
「やれやれ、えらいところに来たもんだ」
 ヤンガスはようやく足を止めて、腰から水袋を取ると、胸を張って喉をうるおした。水は少しばかりこぼれてむき出しの胸や腹をぬらして流れた。だがそれも、こ こではすぐに乾く。この砂つ海の中央に遠い昔に死んだ竜の骨が積み重なる深い洞窟があることをヤンガスは知っている。もう八年も昔に、彼のあの兄貴と、別の二人の仲間と、それからベルガラックのおてんば娘と一緒に探索した場所だ。
 だが、竜骨の迷宮にしろ砂漠の教会にしろ、そんな物寂しい、生活や喧噪や猥雑さのない場所は、ヤンガスが望んで訪れるものではない。かくしに突っ込んだ紙片の最新の一枚にその名前が書いていなかったら、きっと死ぬまで再訪することはなかった。それでもそこにその名前は書いてあったのだし、だからヤンガスはそこに向かっているのだ。いまも、また水袋を腰につけて、走り出すのだ。
 だが、すべての手紙の差出人、必ずほんの少しだけヤンガスの先を行くように見える女盗賊ゲルダはどこにいるのか。だが、そんなことがあるのだろうか? 巻き毛の先が追跡者の鼻を常にかすめるような、きわどい追いかけっこができるものだろうか? それも一年間も?
 答えはこうだ。六年ばかり前のこと、ゲルダは忠実なあらくれとともにパルミドを発った。そしてサザンビークに向かい、リブルアーチを訪れ、オークニスへ行っ た。さらに戻ってベルガラック、サヴェッラ、アスカンタ、三角谷を順々に訪れた。そこで昔馴染みに紙片を託し、探索者の手に渡るように頼んでいった。そして一 年ほど前のこと、砂漠の教会を訪れてそこで死んだ。病であることはパルミドを出たときからわかっていた――否。病であること、やがては死に至る病に冒されたことを知ったからこそ、パルミドを出たのだ。世界を巡って砂漠に至り、そこで静かに余生を送ったのだ。
 それではヤンガスを巻き込んだこの不思議な旅とは何だったのか。ゲルダは最後まで、やせ衰えて砂漠の教会の窓辺に身を持たせかけても彼女ははっきりと言うことはなかった。だが、このように言えるかもしれない。ゲルダはヤンガスを愛していた。愛するだけで十分なほど愛していた。しかし自分がもはや死んでしまい、愛せなくなったときには、愛されたいと思うほどに愛していた。それだって永遠にというわけにではない、百年や十年でも長すぎる。――だが、まあ、一年くらいは。
 ヤンガスは扉を開けた。年老いた修道女がこちらを向いて、静かに微笑んだ。
「ようこそ、砂漠の教会へ。お待ちしていましたよ、ヤンガスさん」
 いささか違う勝手に、ヤンガスは首をかしげた。
「さあ、どうぞ。ゲルダさんがお待ちです」
 ますます勝手が違った。ヤンガスは修道女の導きに従わず、居心地悪気に首をすくめた。ようやくゲルダを捕まえたのか? 最初のうちこそ言いたいことや言ってやりたいことはたくさんあったが、今ではどうも顔を合わせた後のことを想像するのが難しいほど旅に慣れきっていた。
 だが結局、修道女が勝った。落ち着き払って回廊を進むことを促す老女の後について、ヤンガスはのろのろと、それともまるまると歩き始めた。
 ヤンガスは回廊の先で墓所を見出すだろう。もちろんしばらく泣くだろう。だがそのあと、ゲルダの思いや旅を促した意図に気づくだろうか? 定かでない。そん な奇妙な愛情は、届くことも受け取られることもないものであるのかもしれぬ。あるいはそんな必要もないものかも。

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