Crap!....
 絵葉書を売る老婆は口を開きもせず、ぶっきらぼうに東の方を指さした。私はみやげ物屋でにぎわう街路を進み、博物館の入り口にたどりついた。
「きょう、――教授にお約束を頂いているものです」
 お仕着せの詰襟服を着た守衛は差し出した名刺を一瞥し、それからとっくりと私の風体を眺めたあと、黙って顎をしゃくり、入るよう促した。口をきかないのが法皇の住まうこの町の流儀かといぶかりながら、私は大理石のどっしりとした戸口をくぐった。重厚な扉に打たれた巨大な鋲にはその一つひとつに歴代法皇の名が刻まれていたが、たったひとつだけ無銘の鋲があった。
 私は足を止め、半ばも無意識にそのなめらかな表面に視線を留めた。そこに刻まれるべき名、記録抹殺刑というあとにも先にも類例のない刑罰によって、徹底的なまでに歴史から削除された百五十四代の法皇、それすら伝わらない恐るべき罪状のために来歴も名前も末期も無に帰された二百年前の男。
 私は鎮魂のために、この日、古いサヴェッラの町を訪ねた。
 
 
 
 老教授は私の先を立って、天井の高い、薄暗い通路を歩いていった。
「私の若いころには、ここは学問の中心でした。今はあなたのお国トロデーンが学問と商業を一手に引き受けておるようですが…それでも、ここに先人たちの膨大な知恵が眠っていることに変わりはありません」
 そこまで話して、教授は肩越しに私の方を見た。六十も半ばにさしかかった、痩せた顔は教皇庁やかつては隆盛を誇ったサザンビーク国の貴族にしばしば見られる懐古主義者のものうい憂いを帯びていた。
「頂いたお手紙では、封印文書を閲覧したいとのことでしたが」
「――はい」
 通路は曲がりくねり、上りの勾配がつけられて視界はきかない。不意に私はこの博物館が、かつてもっと戦争が日常的だった時代に要塞として建てられたものだと思い至った。突入した敵のさらなる侵攻を困難にするために門からの道は複雑にならざるをえない道理だ。
「トロデーンのお方?」
 私ははっと顔を上げ、教授の問いを急いで反芻した。
「――ええ、私は、英雄王とかの名高い旅をともにした“赤騎士”“銀の魔術師”“死呪の使い手”ククールの末裔です。七代の裔となります」
 
 
 古く上等な革張りのソファを私に勧め、重厚な書机の後ろに座った老教授はしばらく黙り込んでいたが、とうとう一つためいきをついた。
「良いでしょう。あなたはトロデーン王家の紹介状を持ってこの館に来られた。便宜をはからないわけにはゆきません」
 昨年のことだ。当代の法皇の即位にあたり、数百年ばかり昔から不要不急の書類のためこまれてきた古い倉庫の整頓が行われた。詰め込まれた数百立方の書類は羊皮紙から亜麻布、紙に至る雑多な材質からなり、その内容も馬の秣録から死刑執行の草案まで。無秩序な書類のうずたかい山が征服されゆくなかで、呪符と聖句で緘封された一束の書類が発見された。
 記された聖句の筆跡は百五十五代法皇、福者ニノであろうと推察されたから謎めいた無名の法皇にまつわる資料であろうという推測こそなされたものの、封印は堅く、開封は試みられたものの現在まで成功していない。
「考えられぬことです。法皇庁の全力をもってして封印を破れないというのは。また苦々しいことです、法皇勅令に背くかもしれないものを、内容の確認ができないばかりに手をこまねいて見ているしかできないということは」
 老教授は神経質に両手を握り開きながら呟き、やがて我にかえったように、立ち上がり、ついてくるよう冷ややかに無言のうちに促した。
 
 
 それは文字に残されることはなかった。記録抹殺刑の効力はまだ生きており、聖堂騎士であった祖主ククールの代から、神の名のもとに発せられた言葉は全て破るあたわざるものとして遵守せられてきたからだ。しかし刑はあくまで記録に限られていたから口伝は銀髪とともに連綿と伝えられてきた。
『忘却の霧のもとに置き去るなかれ、我らが心なる領土より放逐するなかれ、時をして墓を覆う埋土となすなかれ。なんとなれば、無名の僧はすでに世界に追憶せらるることなければなり。子の子ら、孫の孫らに至るまで、その血に連なる名を奪われし魂について思い致すを止むことなかるべし』
 そして二百年が過ぎていった。祖主から数えて七代目のトロデーン辺境伯家の主になった私は、父よりも祖父よりも肖像画の祖主に似ている。無名の僧、名を奪われた魂への思いは口伝が命じた通りに常に心中にあり、その思いが私を遠くサヴェッラに連れてきた。
 老教授が扉を開けた。揺らめく灯火を掲げて進めば、急な階段は地下深くに沈んでいった。数えて百十三段を下りて、たどりついた狭い空間には腰ほどの高さの石の書見台が置かれ、その上に封印文書が置かれていた。
 私は黙って老教授に視線を向けた。
「――扉の前で待っておりましょう」
 苦笑を浮かべて老教授が踵を返し、その足音が階段を上がってゆくのを聞き、扉が開きまた閉じる音を合図に、書見台に歩み寄った。
 
 
 私の手の下で呪符は静かに開き、聖句はほどけていった。それでもぐるぐる巻きの有様だったその下から一通の封書が現れてただそれだけが残るまでは五分ほどもかかっただろうか。茶色く変色した脆い羊皮紙をそっと指先でなぞり赤い封蝋に触れる。蝋の上に捺された紋章は三叉の槍を掲げる騎士、かつてマイエラに置かれていた聖堂騎士団のそれ。私の指は震えた。
 震えの理由はどこにあったのか。あるいはこの文書によって彼の名が知れるかもしれなかった。その出自来歴、あるいは末期についてなにか知るところがあるかもしれなかった。それとも彼と我々との詳細が。私は少し頭を傾げて胸を掻いた思いが静まるまで待った。そして。
「――」
 私の手の平が火炎呪文に熱し、次いで乾いた羊皮紙が燃え始めた。熱で巻き上がった紙片にかすれた文字が一瞬浮かび、それもすぐに灰となった。
 私はわずかに残った灰を前にしてしばらく立っていた。手を伸ばし、まだ形を留める残骸を崩してゆく。彼が誰であり誰であったかなど、誰も知らなくてよいことだ。祖主ククールを除き、誰一人知らなくていいことだ。私は目の中に残った簡略な字体の署名を忘れるまで、目を閉じてしばらく立ち尽くした。
「私はもう、あなたの言葉を誰にも伝えない。ククール、父祖よ。彼はその記憶の最後の断片に至るまであなたのものだ。そして我々はもう彼を忘れる。先へ行くときが来た、夜が明けるときが来たのだ。――安らかに眠れ」
 どこか遠くで、私がその容貌を受け継いだ騎士が立ち去る気配があり、私は気だるい思いに覆われた。

menu