Crap!....
【キスする前に10のお題―1:ぎゅーして。】
 コトンと物が落ちる音がした。ククールがそちらを見ると、赤革の四つ折本が暖炉の前の床に転がっていて、そのすぐ横ではスツールにもたれるようにしてマルチェロが眠り込んでいた。本を読んでいるうちに睡魔に襲われたのだろう。ククールは手にしていた羽ペンをそっとインク壷にさすと、足音をさせないように気をつけながら、揺れる船の家を横切って兄の方に歩いていった。
 ゴルドの崩落から七年と少しが経っていた。大鷲として過ごした歳月を隔ててククールに見出され、サザンビーク王国の南の広大な砂浜につけた船の家で暮らし始めたマルチェロは、実によく眠った。誰よりも早く起きて、誰よりも遅く床についていた修道院時代を知るククールが心配になるほど良く眠った。  相談を受けたオークニスの薬師グラッドは問題ないと答えたが、ククールは目覚まし薬の処方のないのが多少なり不満だった。もっとも、不服の理由が、ようやく棘と角の取れた兄を独占できないのが悔しいという、甘えた子供の言い分同然に理のないものだということは本人もよくわかっていたが。
 だがそれにしたって、昔に比べて兄貴はあんまり眠りすぎじゃあないか―と考えながら、ククールは背中を屈め、床に落ちた本を拾い上げた。それは古い祈祷書で、革の上に金で捺した飾り文字の題字も褪せかけている。曲がったページを直して閉じた本を傍らに置き、ククールは顔を上げて、兄を見た。  マルチェロはスツールにもたれて眠っている。深まり始めた秋の夕べ、炉の炎はうつむく横顔を照らし、伸びた髪は、以前のようになでつけられる代わりに後ろで軽く束ねられている。今はそこから逃れた黒髪が額に頬にほつれ落ち、マルチェロのかすかな呼吸のつどに揺れている。それがなにかひどくくすぐったそうで、ククールは床に膝をついて手を伸ばし、兄の頬にかかったほつれ毛をそっとかき上げ、耳にかけてやった。指先は髪に触れ、頬をかすめ、薄い耳に触れ――マルチェロはかすかに身じろぎ、薄く目を開いて短い吐息を落とした。その吐息は、やわらかい風のように、ククールの頬に触れた。
「ごめん、起きた?」
 マルチェロは問いの意味をはかりかねるように、それともまだ夢から醒め切らないように、緑の目を何度か瞬きし、うん、とも、いや、ともつかない声を喉からかすかに漏らした。ククールは少し笑って、兄の肩に手を置いた。粗い毛織の衣の下から、眠たい子供のような、いつもよりも少し高い温度が伝わってくる。それは書き物をしていたせいで冷えたククールの手に快く染みた。ああ俺は、とククールは考える。ああ俺は、いま、兄貴を、抱きしめたい。
「ククール…」
 かすれた寝起きの声が囁いた。物憂げに、問うように。だがそこには敵意も毒もない。穏やかな親しさがあるばかりだ。ククールは黙って、兄の肩にかけた手を、そろそろと背の方に回し始めた。距離は必然によって縮まっていった。
「あに、き…」
 ククールの声音には、胸が胸に重なるかすかな衣擦れが伴う。引き寄せた体は温かく、鼓動が確かだ。顔もまた近い。見交わす目の焦点もあわないほどには。鼻に鼻が触れ、頬に頬が触れ、唇に互いの吐息がかかる。
「なあ、――して…?」
 唇を重ねるよりすこしまえ、マルチェロはかすかに笑った。それはつまり、ねだられるまま抱きしめた腕の中で、ククールが、あんまり情けない顔をしたので。
 
 
【キスする前に10のお題―2:ささやいて。】
 窓の外を風が吹いている。秋の真夜中、月光に明るく輝く風が。マルチェロはふと顔を上げた。小止みなく揺れる船の中には誰もいない。ただ、南に面した丸い窓が開いており、音もなくカーテンが揺れていた。
「ククール、いるのか?」
 答えはなく、ただどこか遠くから、絶え間ない潮騒に混じって、子供のような笑い声が聞こえてきた。マルチェロはわずかに頭を傾げると、またたきひとつのうちに精悍な黒い鷲に身を変え、窓辺から飛び立った。激しい羽音が遠のくと、あとには読みさしのまま忘れられた本が、ランプの光の作る明るい輪の中で、はらはらと、はらはらと、自ずからページを進めていくばかりだった。
 ゴルドの崩落から、七年と少しの月日が経っていた。マルチェロは大鷲として七年を過ごし、そのあとククールに見出された。だが、ことの詳細については、マルチェロはよく知らない。どのようにして鷲に変化したのかも、どのようにして人の姿に戻ったのかも、夢の中のことのように定かでなかった。確かなのは、自分がいまサザンビーク王国の南の広大な砂浜につけた帆船で、弟とふたり静かに暮らしており、そしてもう弟を憎んではいないことだけだ。
 マルチェロである鷲は高く舞い上がり、浜辺を見下ろした。月影は白々として平たい砂浜を照らし、その先に広がりたたなう海を照らしている。すべては揺れさざめく光の希薄な集合のようだった。砂は淡く発光するようでもあり、陰影に明滅するようでもある。白い光の乱れ散る波打ち際から、月まで続く光の道が通じている。猛禽類の目にさえ美しく、ものがなしい風景だった。
「…。…」
 ひょうびょうと耳元を走る夜半の風の中に、マルチェロである黒鷲は細い呼び声を聞き取った。招かれるまま翼を返し、大気の上に弧を描くように滑空する。糸を引いたように向かう先に、立っているのは銀の影。長い髪を背中に束ね、細い体を広漠たる浜辺の波打ち際に置いている。マルチェロは最後の瞬間に広げた翼で速度を削いで、ククールの左腕の上に舞い降りた。
「あんた、鳥でもカッコいいけどさ」
 ククールはマルチェロの翼に頬を寄せた。夜を渡った羽毛は冷たく滑らかだ。そのまま顔に顔を近づければ、曲がった鋭い嘴が、傷つけることを恐れるようにそっと遠ざけられた。ククールは声を立てずに笑って、それから囁いた。 「人に戻ってよ。ね、俺、今すぐあんたにキス、したいよ。―マルチェロ」
 ばさりと羽音が立って、ククールは目を閉じた。その頬にひんやりとした指が触れ、目を開くと緑の瞳はすぐそこにあって、ククールはまた目を閉じた。足元に落ちたふたつの影が溶け合ったのは、そのすぐ次の瞬間のことだ。
 
 
【キスする前に10のお題―3:なでなでして。】
 夜明けは静かに音もなくやってくる。ククールは目を覚まし、肌寒さにふるりと震えた。上掛けを引き寄せつつ見上げた窓の外は、水のような淡薄色の秋の黎明が占める。船腹を洗うさざなみの、低いささやきが響いていた。それはもうククールにはよく馴染んだものだ。サザンビーク大陸の南辺の海辺につけた帆船に住み始めてから、もう七年と少しになる。最初の七年は一人だった。二人になったのは、ほんのつい先ごろのことだ。
「……?」
 ククールは半ば眠りつつ手を伸ばし、何にも触れなくて困惑した。いつもなら寝ぼけて手を伸ばせば、硬めの黒髪か、なめらかな背中か、それとも、静かに上下する肩に触れる。つまりは眠るマルチェロに。
「あに、き?」
 寝起きのかすれた声は、答えを得ずに消えると思われた。だが問いが消え、あとに広がった遠くくぐもった波音の向こうから、かすかに軋む床板の足音が始まった。ククールは近づく足音とともに広がる静かな安堵のなかで、寝返りを打って仰向けに横たわった。背中の下には乱れた長い銀の髪を敷いて。
「どうした、ククール。起きたのか?」
 かけられた声は低く、古いチェロのようなものやわらかな倍音を伴っている。ククールは目を閉じて笑った。むき出しの肌の上で風が動き、乱れた上掛けを直される。足先を冷やさぬように、肩を冷やさぬように、すっぽりと包まれる。
「起きたら、あんた、いないから…」
「ああ、目が冴えてな。海辺を歩いてきた」
「うん。潮のにおいがする」
 かすかに寝台が揺らいで、端に腰掛ける重さがある。
「渡り鳥が南へ飛んでいった。私の頭上を幾つも群が」
「レティシアへ行くのかな、あそこは冬もあったかいから」
「そうだろう、海を渡って」
「うん、嵐にあわないといい…」
「そうだな」
 頬に触れる指先の気配がある。夢うつつの他愛のない会話はひどく幸福だ。指は頬をなで、閉じた目の瞼をなで、額をなでる。そっと、そっと。
「ククール、眠っているのか?」
 声は、ひどく近くで聞こえる。衣擦れの音がして、顎のあたりに吐息を感じる。ククールは目を閉じたまま左手を伸ばし、兄の頭を引き寄せた。くちづけは距離を誤って最初は鼻をかすめ、次には顎に触れ、三度目でようやく重なった。
 
 
【キスする前に10のお題―4:おはなしして。】
 開け放った窓のガラスは輝き、彼方の海と砂浜も輝いている。午後の船室に秋の日の黄金の光は斜めに射し入る。光は部屋を横切って、花を織り込んだ青や藍の絨毯を二つに区切り、白いクロスのかかった丸テーブルを明暗に色分け、その上に置かれた食器の影を斜めに描いている。
「夕食には少し、早くないか?」
 鼻歌をうたいながら支度を始めたククールに、手にした書物から顔を上げたマルチェロが問いかけた。
「ああ、メシじゃあないよ、兄貴」
「ほう?」
「午後のお茶さ」
 ククールはそう言うと、丁重なお辞儀でマルチェロをテーブルに招いた。
 素朴で使い勝手のいいトロデーンの唐草文様の陶器のポットから、同じ模様の茶椀に注がれた液体は、赤色がかった深い茶色で、豊かな香りがした。
「ミルクか、砂糖は?」
「いや、これで十分だ」
 角砂糖を三つばかり放り込みミルクをたっぷり注ぐククールの手元をうろんな目つきで見つめながら、マルチェロは答えた。
「このカップとポット、トロデのおっさんがくれたんだ。俺が船出するとき」
「良いものなのだな」
「スプーンはミーティアが選んだんだってさ。細くてちょっとかわいすぎるだろ」
「行き届いた姫君だな」
「うん、美人だし、いい子だよ。頑固なところもあるけどさ」
「そうか」
 マルチェロはカップを引き寄せ、茶を含んだ。快い香りが鼻孔に満ちる。顔を上げると、ククールがじっとこちらを見ていた。
「どうした?」
 ククールはちらりと笑って、目を伏せた。その表情は、困ったような、いまにも泣き出しそうな不安なもので、マルチェロは黙って返事を待った。
「俺、さ」
 ぽつとククールが言った。忙しく瞬きする睫毛が、喉のあたりで詰まっている言葉のあることを告げている。
「マルチェロ、あんたと、こんなふうに話したかったんだ。ずっと、こんなふうに、こんなふうに…」
 それっきり黙ってしまった弟の方に、マルチェロは身を乗りだした。幸いテーブルは小ぶりだ。大柄なマルチェロならば、ポットの脇に手をつけば届くほど。
「ククール」
 顔を上げた弟の睫毛には、銀色をした涙滴がからまっている。マルチェロは最初のくちづけでその滴をつみとり、次いで唇に触れた。
 
 
【キスする前に10のお題―5:てをつないで。】
 サザンビークの南の岸辺に、豊かに風は吹いている。ククールは乱れかける髪を押さえて昼の光の中を歩いていった。秋の日差しは透き通り、重さのない希薄な水のようだ。見上げれば、遠い大気の上層を旋回する鷲の影がある。ただの鷲ではない。ククールはそれが“だれ”かを知っている。
「今でも、鳥のつもりでいるんじゃないか、マルチェロのやつ―…」
 ククールはぼやいた。この海辺で、船を寝床に住み始めてから、もう七年と少しになる。最初の七年は一人だった。どういういきさつでか、変化の呪文で大鷲となっていたマルチェロを見つけたのはつい先ごろのことだ。
 ククールは波打ち際に沿って真っ直ぐに歩く。波音は一定で、寄せる海水は手招くようだ。足元では湿った砂が靴裏のかたちに崩れ。そうしていると、時と歴史の概念は失われ、今がいつなのかが、しだいにわからなくなる。エイトやヤンガス、ゼシカとともにした、あの長い旅のいつかなのか? マイエラのあの修道院の暗い日々のいつか、やりきれない悲しさと苦しさを抱えた日々のいつかなのか? それとも、どこにも見当たらない兄を探しつづけた歳月の―?
 激しい羽音がククールの思いを引き戻した。視界をよぎった大きな黒い翼と陽光を透かした風切り羽根、だが次の瞬間、そこに立っているのは長身の男、つまりはマルチェロだ。少しばかり黒髪を乱しているほかは、常に変わらぬ。
「上から、おまえが見えた」
 ククールは、ちょっと驚き、それからゆっくりと微笑した。
「降りてきてくれて、よかったよ。あんた、またどっか、行っちまう気かと…」
 マルチェロがかすかに笑ったので、ククールは思わず言葉を途切れさせた。そうした笑みは修道院のころに見せたことはなかったのだ、そんな微笑は。
「どこにも行きはしない」
 その口調の穏やかさに、ククールは、危うく叫びだすところだった。あんたはいったい空になにを無くしてきたんだ、あんたはいったいどうしてそんなふうに笑う、あんたはいったいどうして―。 だが口から出たのは別の言葉だ。
「飛ぶのもいいさ、兄貴、マルチェロ…。でもさ、あの…」
 差し出した手は少し汗ばんで湿り、少し冷えて震えていた。
「たまには、歩いても、いいだろ」
 顔を伏せ、呟くように言った言葉に、返答はなかった。ただ暖かい手が手に触れるのを、およそ信じがたいような思いで知った。節の立った、はっきりした輪郭を持ったマルチェロの手は、ククールのそれより少しばかり温度が高い。
「ククール」
 呼ぶ声は穏やかだ。穏やかで、子供を諭すような響きを持っている。ククールはかすかに身を震わせ、おずおずと顔を上げた。
「泣くな」
 視界はいやにぼんやりしている。目を閉じたことで、頬に涙が流れたことで、ククールは自分が泣いているのだと知った。その唇に、あやすように温い唇が重なって、ククールは、つないだ手をきつく握った。
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