The fall of Elegion....1

 これは夢だと知っている。何度と無く繰り返し見た悪夢だ。だが、そうと知りつつ途中で目覚めることに成功したことはない。結末を変えることにも。
 ――闇の中で輝くのは二つのシルマリル、鉄の冠に囚われた白い炎。
「そなたの望みは右手にあろう。世に絶する美を作り出すことが望みであろう」
 その声は蛇、その言葉は毒であった。だがその瞳こそは世の始まりに先立つ暗黒、世界の破壊を司るヴァラの内面に続く窓ではなかったか。
 暗黒の王は鋼に覆われた腕を挙げた。鉄の爪が青白く輝いた。
「殺しはせぬ」
 左手が動いた。そのとき左手はモルゴスの手であった。
「だが長く続く絶望を与えよう」
 左手が右手を掴み、腱の一つ一つを取り返しのつかぬ音とともに引きちぎっていくその音を、身動き一つ許されずに聞いた。あまりの激痛に意識は遠のき、引き戻される――あまりの激痛に!
「フェアノールの末裔よ、おまえの絶望が聞こえてくる」
 千切り取った腕を、左手は恭しく黒鉄の王の前ににささげた。


 工房の片隅で、ケレブリンボールは目を開いた。体には冷たい汗が流れ、震えは去らぬ。瞬く目の中で。視界は揺らいで夢とも現とも判じがたく揺れ動いた。ようやく己のありかを得心したのは冷たい大理石の床の上に投げ出したミスリルの右腕を生身の左手で何度も触れて確かめてからだ。
 モルゴスは滅び、サンゴロドリムも滅びた。しかしなされた悪は消え去らぬ。闇の中に失った右手と生まれながらの名もまた戻らぬ。代わってミスリルの義手と銀の手を意味するその名を帯びこそしたが。狂ったように早鐘を打ち続ける鼓動とひきつれたような乾いた呼吸のさなか、だが、とケレブリンボールは顔を歪めて笑い、次いで歯噛みし低く激しく囁いた。呪詛を囁くよう。
「私はおまえの企みを出し抜く、モルゴスよ」
 震える左手の爪が大理石の床をがりと掻く。あたりは暗い。遠い鍛冶場の戸口からわずかに漏れる揺れる炎のほか光もなく。
「おまえが私を絶望させはしなかったと証明しよう。悪を与えたつもりが善と美を生じさせたのだと」
 そうだ、ケレブリンボールをして。フェアノールの末裔をして。
「――殿、またこのような場所で」
 上から降ってきた言葉に、ケレブリンボールは顔を上げた。陰の中に立つのはアンナタール。ナルゴスロンドの幼時からの忠実な従者。いぶかしむよう伸びてきた手がそっと頬に触れた。それで初めて、自分が泣いていたことを知った。
「夢を?――」
 穏やかな声がささやく。見上げる視界の中でアンナタールの背は屈められ、伸ばされた手は震え続ける体を抱き起こした。耳元には上代の言葉が囁く。災いは取り除かれ恐怖は取り去られた。暗黒は去り希望が残った。世界は若木のごとく栄えている。ケレブリンボールはこわばりを解いて、従者の腕に体を預け目を閉じた。髪を梳く手と指がある。衣を掴むといっそう深く抱き寄せられた。ケレブリンボールは目を閉じる。
「夢は夢に過ぎませぬ。朝には暗い幻は消え、光が立ち戻ります。そして朝の光の中で世界は変わらず美しいことを見出されましょう」
 怯えた子供にそうするよう、アンナタールは静かに安息と癒しの言葉を囁き、髪と背をなでてくる。ケレブリンボールは血を流していた傷口から静かに痛みが引いてゆくのを感じた。痛みが引き、深い傷は柔らかな翼で覆われる。だが癒えはしても消えはせぬ。ケレブリンボールは目を開いた。
「……すまぬ」
 囁き、つかんでいた衣を離した。労わるような口付けが額に落とされるのをケレブリンボールは黙って許し、つかのま視線をはずして遠い炉の光を見た。白い壁に白い床に映える光。グワイス=ミー=アダインの秘密の心臓なす銀の火は静かに揺らめく。
「今は――夜明け前か」
「さよう。とはいえ都は眠ってはおりませぬ」
 先に体を起こしたアンナタールが手を差し伸べた。ケレブリンボールも立ち上がる。悪夢はまだ内臓の上に重く、手足に疲労は残る。こうした夜は何年振りであったろう。モルゴスが滅びてもう千年にもなろうとというのに。
 ――そう、朝がめぐればまさに千年となる。力が戻ってきた。明るく燃える炎のような力が。ケレブリンボールは深く呼吸を吸い込み、微笑んだ。
「朝とともに祝祭が始まる。かつてエルダマールで、かつてエイセル・イヴリンで祝われたような祭りが。さあアンナタール、私に都を見せてくれ。花嫁のごとくきらびやかに飾られた私の都を」
「わが望み、わが喜びとして」
 従者は先に立って歩んだ。広々とした工房を抜け、柳の葉のかたちの窓の方へ。硝子の扉が開き、爽やかな夜の風がケレブリンボールの上に吹き付ける。アンナタールは主を振り返ると、優美に胸に手を添え、美しい頭をたれた。
「エリアドールにひとつ星ありて、銀の手の御上に輝く」
 ケレブリンボールは硝子の扉をくぐり、星の輝く空の下に立ち出た。そして眼下にエレギオンの都オスト・イン・エジル、千もの塔を抱くところ、今やこのうえなく美しく装われたその領土の飾りを見下ろした。



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