ゴルドにて....

 ゴルドの夜は刻印を押されたよう明暗に分かたれている。栄えある法皇の即位式を前にして夜通し百千のかがり火が焚かれる城壁の内は明るく賑々しく、忙しく行きかう人々の姿さえ鮮明に浮かんでいる。その様はまさに不夜城と見えた。
 だが城門の外に視線を転じれば、広漠たる不毛の荒野に暗黒は深い。深くまた濃密に、外なる海に連なっている。海はまたさらに暗く、今し波頭の上にあらわれた曲がれる月は血さながら。泣きはらした目さながら。邪悪の前触れさながら。不吉な予兆さながら。
 マルチェロは城壁上の鐘楼に立ち、明暗両界を眼下に見渡していた。従者は階下に下げたから、一人きりだ。一人きり? 否。
 杖がある。最初の折りに挑みかかってきた荒ぶる暗黒神の剥き出しの悪意ではなく、暗がりの呪詛のような小暗い邪悪が、絶えず杖を握る左手から染み入るのをマルチェロは感じていた。マイエラの厳しい冬に石壁を通してしんしんと寒さが染みていたよう、小止みなく。それはマルチェロから眠りを奪い、食欲を奪っていたが、気に留めようとは思わなかった。眠らぬ目も食後の気だるさに染まぬ体も意にかなっていたからだ。
「サザンビーク、アスカンタの両王家はいずれも即位式への出席を拒んだ」
 欄干に身を寄せ、マルチェロは言った。両王家の言い分は斯くの如し。サザンビークは王の健康が優れず王子は年少につき。アスカンタの王は妃の喪の悲しみ久しく癒えざるによって盛事に耐えずと。
「本当のところは様子を窺がっているに過ぎぬ。新たな法皇は不義の生まれ、しかも選考の過程はきなくさい。様子を見てからでも表敬は遅くはなかろう、とな。だが遅い、もう遅いのだ。マイエラの剣はすでに十分に強大だ。そうして全ての町の教会のみならず野の魔獣に至るまで私の目と耳となった。アスカンタが落ち、サザンビークが滅ぶまでさして時間はかからぬ。そのときこそ王たちは不敬の返事を悔いることになろう」
 火花が飛ぶほど勢いよく石突を床に突かれて、杖はひときわ高く呪詛を吐いた。マルチェロは声高に笑った。
「腹立たしいか? 腹立たしかろう。神の身で人ごときに封じられ、その力を利用されてな。しかも甘んじるほかないとは」
 振動に似た不平と服従の気配が手のひらに伝わり、マルチェロの誇りを少しばかりくすぐった。全世界をも敵に回してなお勝利を得んとする気概が彼を限りなく誇り高いものとしていた。
 夜を貫いて、マルチェロは女神の方に視線を投げた。ゴルドの中枢なす巨岩に刻まれた立ち姿の女神は、町のかがり火の光に赤く照り染められている。永の世紀に渡って数限りない巡礼たちを跪かせあるいは落涙させた崇高なその顔、朝は天つ少女、真昼に世界の女王、夕暮れには聖なる母の慈愛の相を顕わすと言われる像は、今は多くの悲嘆を重ねて老いやつれた女のようだ。
「女神よ、なにひとつ役には立たぬ石の偶像よ。かつてすべてを奪われ放逐された私が貸し分の返還を求めるときが来た。世界を滅ぼそうとも手を緩めようとは思わぬ。おまえが言われている通りのものであるなら、阻むがよい」
 聞くものがいれば恐るべき涜神の言葉に身震いしたであろう。狂気をさえ疑ったかもしれぬ。マルチェロ自身さえこのとき、まさに世界を滅ぼすまで尽きぬであろう自らの憎悪の深さ、父と慕った老僧がとつとつと教えた神の言葉に反する許しを知らぬ苛烈さにふと不安を覚えさえした。
 だがそれも一瞬より長いあいだは続かなかった。凍える吹雪のような冷たい怒りが戻ってきたからだ。それは確かに、幼時に母とともに家を追われたことに端を発し、不義の子と囁かれる都度に刻まれたものではあった。だが今やそれはそうした個々の記憶を併せたよりも激しく、彼自身の本質の一部――否、ほとんどすべてと化している。冷たい呪詛を吐き続ける杖をよすがとして両手で握り締め、マルチェロは町の灯火に赤く淀む空を見上げた。
「――世界を手に入れるのだ」
 夜明けは遠く、遥かに遠く。
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