Fire....
 黎明の気配は東の空にある。鈍色の雲は嫌々に明るみかけている。北東の風に衣の裾がはためかせてマルチェロは右手の松明をゆっくりと三度、打ち振った。合図に応えて暁闇の向こうで炎が弧を描いて幾つも飛ぶのが見えた。そしてその落ちたところから、風にあおられて紅蓮が蔓延り始める。瞬く間に炎は広がり、乾いた葦の焼ける音は遠く離れた塔の上からでさえ恐ろしく、赤熱した高い茎がはぜ割れ縮れる鋭い音は耳に届いた。
「隊長、ご命令通り船を出しました」
 階段を上がってきた副隊長が告げ、それから息を飲んだ。
「凄まじい眺めですな」
 葦は燃え上がるのも早いが燃え尽きるのも早い。群なす炎の精霊さながら、緋色の帯は高く焔を巻き上げつつ足速に西へと走ってゆく。黒煙は天を突くほど高く上がり、明けつつある空の裾を巻き上げた煤で汚していた。
 盗人たちはいま、背後に迫る炎と煙の恐怖に駆られて必死に逃げているだろうとマルチェロは考える。彼らは炎より速いかもしれないし、そうでないかもしれない。もし火にまかれ溶けたとしても黄金の目方に変わりはないし、煤と灰は洗えば落ちる。騎士団長は気にしないだろう。またよしんば盗人たちが炎を免れたところで、仲間の待つ北の入り江には行き着けぬ。西へと走る炎に追われて逃げた先の岬には騎士をのせた船が待ち受けている。どのみちマルチェロの勝ちだ。
「――馬は?」
「すでに馬具を整え、門前に具してあります」
「よかろう。炎を追って行く」
 マルチェロは歩き出したが、塔の階段を半ば下りたところで、踊り場に赤い服の騎士が立っているのを見出して足を止めた。
「ククール、配置につけと…」
 副隊長が言いかけるのを、マルチェロは片手で制した。戸惑いの気配はあったが、常のごとく無視する。やがて副隊長の足音が階下に消えるまで。それからククールに向き直った。
「――簡潔に」
 冷ややかな声音に銀髪の弟が困惑にか躊躇いにか瞬きするのを、マルチェロはどこか遠い思いで眺めていた。
「俺……言わないよ」
 ククールの声は震えている。マルチェロはその震えを知っている。どのような思いがそこにあるか知っている。愛されることへの切望、乞うほどに許しを求める絶望的な願いだ。ククールがいまどれほど切ない苦しい心持でいるか手にとるようにわかった。そうとも、マルチェロ自身、かつてこのように語ったことさえある。あれはいつだったか。生まれた屋敷を追われて半年、母の病が重くなったころだ。そのとき一片の慈悲を求めて見上げた相手は誰だったか。父親だ。それはククールの父親でもある。
「ゆうべのこと、誰にも言わないから……」
 マルチェロは唇を歪めて笑った。思考はいやに冷静だ。
「言えばよい。おまえに借りを作るくらいなら破滅した方がましだ」
 言葉を失ったククールのさまは、呆れるほどにあのときの自分に似ているとマルチェロは思う。目を見開き、唇を震わせ、青ざめて。だが涙を流しはしない。そうだ、あのときも――涙を流すにはひどすぎた。
「俺、は、どうすれば、いい」
 かすれた声をマルチェロは聞く。撫でる手の幻が背をかすめた。
「あんたは、どうすれば、俺を……」
「知りたいか」
 一切を振り払うよう、マルチェロは一歩、前に出た。ククールは怯えた顔で見上げてくる。なんという哀れな顔だろう。絶望し、自らを卑しめてなお愛を乞う顔だ。だが、と自問する。父は私を哀れんだだろうか。あるいは母を。答えは否だ。それならどうして私が弟を哀れむだろう。マルチェロは悪意のままに口を開いた。
「教えてやろう。一番良いのは生まれないことだった」
 ククールの美しい青い目に絶望が広がっていった。燎原に火のごとく速やかにまた後には何も残さず。だがまだ生ぬるい。あの日に私の母は死んだのだとマルチェロは考える。薬もなく医者もなく野良犬のように。狙い澄まして言葉を射た。
「――次に良いのは今すぐ死ぬことだ」
 これがとどめだ。心臓を貫かれたよう虚ろな顔で立ち尽くすククールを残し、残酷な満足感を抱いてマルチェロは踵を返した。これ以上長く、過去にも弟にも拘泥するつもりはなかったからだ。そうだ、行かねばならぬ道は長く遠い。だが扉を開いてマルチェロは、眼前に広がる黒く焼け焦げた荒野にふいに暗澹たる思いに駆られた。そしてその苦さは容易に消えることはなかった。
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