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 ことの起こりはある老貴族の気まぐれだった。老いた男はとうの昔に全財産のほとんどを修道院に寄付して現在はむしろつましい身の上であったが、しかし相変わらず貴族ではあったから、マルチェロがサヴェッラで騎士団長の位を受けるにあたって必要となる推薦人の一人となる資格を持っていた。そしてマルチェロはその推薦を切実に必要としていたのだ。しかしそれをククールが知ったのは、ずいぶんと後のことだ。
 
 部屋に入ったククールは、ここしばらくなかった“出番”なのだと直感した。青い皮を張った団長の椅子に座った兄の表情が不自然なまでに失せて、その周囲に見知った暗い空気が廻っていたからだ。直感は、落ち着き払って立ち上がった兄が告げた素っ気無い言葉で確信に変わった。
「出かける。供をせよ、ククール」
 兄が彼の名前を呼ぶのは、そのときだけだ。
 “出番”はククールが十三歳のときから始まった。ありていに言えばククールは、兄に連れられて行った立派な館で貴族に抱かれた。最初は何をされているのかさえ理解できなかったものの、数を重ねまたあれこれと余計な知識が増えるうちに自分の置かれた立場や兄の思惑もおいおいわかった。
 それは最初、少しばかりククールを寂しくまた惨めにさせた。しかしことはそれほど頻繁ではなかったし、なにより貴族の絶対的な庇護を得た兄の出世は目覚しいものだったから、ククールはそれで満足することができた。ときには自分にも兄のためにできることがあると自慢に思いさえしたものだ。
 だがマルチェロはすぐに自分の才覚と努力だけで出世街道を歩き始めたし、貴族たちの財産も無限ではなかったから、ククールが十五歳になって背も髪も伸びたころには、“出番”はほとんどなくなっていた。
 マルチェロは栗色の駿馬の端綱をお仕着せの下男に渡してさっさと扉の方に歩き出している。その後を追って小走りに白亜のアーチをくぐりながら、このあいだこの屋敷に来たのはいつだっただろう、とククールは考えた。もう一年にはなるはずだ。あれは秋だった。ことのあいだ、いつものように何も考えずに窓の外の木々が燃えるように色づいているのを見ていたのを覚えている。灰色の陰気な屋敷もその主人の太った貴族も好きではなかったが、春は若葉が、夏には色鮮やかな花が咲く明るい中庭は好きだった。
 翻る青い衣の裾を追って、ククールは長い廊下を歩いて行った。記憶にあるより調度は少なく、またどこか荒んでいるような気がしたが、よく見ている暇はなかった。窓から見える庭は曇った五月、色濃くなりまさる緑の上にぽつぽつと雨が落ち始めている。修道院からの行程に天気が保ったことを少しばかり感謝して、黄金の紋章のかかる高い扉をくぐった。
 灰色の床と壁に四方を囲まれた部屋は広く、がらんとして、ただ羊毛の敷物の上の椅子に見知った貴族が蹲っていた。兄に倣って黙って頭を下げながら、ククールは、老人が記憶にあるよりはるかに痩せていることに気づいた。以前は腹に肉がだぶついていて、顎にも頬にもあふれるほどに脂肪がのっていたのに、今は鶴のように骨ばっている。
「よう来てくれた、マルチェロ」
 その声を聞いてククールは漠然と、老人が死に近いことを悟った。同時に、だがどうして自分を呼んだのだろうという疑問を抱きもした。今の老人には精力のかけらもありそうには見えなかったからだ。かといって臨終の秘蹟を受けるにはまだ間はあるだろう――まあ、数日は。
「長らくの不義理をお許しくださいませ、閣下」
「――もうわしには寄付する荘園も金も宝石もないからのう。この屋敷も、すでにわしが死ねば修道院に寄付する約束よ」
 ククールは片方の耳だけでやり取りを聞き、意見は言わない。これは大人の話で自分の役目はまだ後のはずと承知しているからだ。だから老貴族が黄色く濁った視線をこちらに向けて言った言葉に軽い驚きを覚えた。
「ククール、わしはそなたと話がしたい。寄ってくれぬか」
 ちらりと見た兄は素知らぬふりだ。おずおずと進み出て、老人に近づいた。そうしながら、奇妙な居心地の悪さを感じていた。抱かれるときはおおむね後ろからだったし、たまに正面から抱かれることがあってもよそを向いてぼんやりしていたから、こんなにまじまじと相手を見るのは初めてだった。
「久しぶりじゃのう。背が伸びたな」
 たるんだ染みだらけの肌と落ち窪んだ目に老醜という言葉を漂わせた老貴族からは墓場を思わせる匂いがした。だが性的なものを思わせる様子はなかったから、ククールはぼんやりとすることもできずに突っ立っていた。
「わしは身寄りもない老いの身じゃ。冷えて凍えて死ぬばかりと思うておった生涯の最後に、修道院で見かけたおぬしに血道を上げた」
 答えに窮していると、骨ばった震える指が伸びてきて髪に触れた。
「わしはよい。金もあの世までは持って行かれぬし、今さら神に許しを請える身でもないからのう。だが金で買われたおぬしは哀れ、哀れじゃ」
 鳥の爪のような指が髪をすき、そうして下ろされた。老人は中身の抜けた麻袋のようにぐったりと椅子の中に沈み込み、ちらりと視線を上げた。つられて顔を上げると、驚いたことにわずかに一歩隔てて兄が立っていた。
「――――」
 後ろから聞こえた老人の言葉についてククールが理解するより早く、マルチェロの手が伸びてきた。思わず身体をこわばらせ――
「ククール」
 低い声音が耳を打ち、そしてククールは言葉を忘れた。呆然と目を見開くその目の前に、碧の瞳が近づいてくる。遠くからかすかに知るばかりだったその色が。仰ぎ見ることさえ恐ろしく、だが注がれることをなによりも望んでいた眼差しが。驚きと混乱で息もできず目を閉じられもせぬうちに、もはや焦点もあわないほど碧の目は近く、間近い肌はその温度さえ触れてきた。思考も叶わぬ空白のなかで、身内を鋭い感覚が走り抜けていった。炎のように鋭く熱く、そして脳髄まで痺れるほど甘い感覚が。
 その余韻も消えないうちに唇に静かな吐息が触れた。次いで実体のある温度が。そのかすかな触れ合いだけで糸が切れたように膝からは力が失われ、倒れようとしたところで強い腕に捕われた。そしてほんとうに、もう逃れることもできず深い深い口付けに攫われる。舌に舌をからめ取られ、唾液を吸われ、唇を甘噛みされて、ククールはすすり泣いた。この熱この激しさに溺れるのが抱かれるということなら、これまで抱かれたことなどなかった。
「あに、き…ッ…」
「ククール」
 一枚ずつ衣を剥ぎ取られながら、素肌に触れる指にその都度なすすべなく声を上げながら、たやすく熱をあおられながら、繰り返される荒々しい口付けに息も絶え絶えとなりながら――だがククールはそれでも気づかないわけにはいかなかった。たった一時間でも気づかないでいることができたなら、喜んで持つものすべてを投げ出したに違いなかったが。
(「最期の贈り物だ」)
 老貴族はいったいどんな金品かそれとも権利かと引き換えにマルチェロからこの行為を買ったのだろう? その注文にはもちろん、口付けと名を呼ぶことも含まれていたのだ。すべてを窃視する権利も。そして恋人のような熱烈な愛撫も。だが老貴族は買いかぶった。本人がいかに勤めるにせよ装うにせよ、碧の目の奥には冷ややかな拒絶が浮かび、名を呼ぶ声音の奥には沈黙に似た否定が響く。そしてそれをククールが間違えるはずもない。間違えることができるはずもない。なにしろ血を分けた兄弟だ。
「…ァ」
「ククール」
 気の狂いそうな絶望とそれでも消しようのない幸福感に身を捩じらせ、ククールは兄の上に腹ばった。素肌を重ね汗を溶け合わせ、口付けの中で目を閉じる。幸い鼓動はうるさいほどに高いから、耳をふさぐ必要はない。
 あんたが騙そうとしないなら、俺が目を閉じているしかない、とククールは高まる熱の中でかすかに考えた。そしてこのようにも。
 ――できるならあんたを殺したい。殺してやりたい。
 だがそれにはあまりに愛しすぎていた。愛し、そして憎みすぎていた。
 
 次にククールが目を覚ましたときには、もう何もなかったようだった。一糸乱れぬいつもの出で立ちで馬を駆る兄の後ろについて修道院に戻り、野菜スープだけの味気ない遅い夕食を取った。数日後には正式な団長就任式のためにマルチェロはオディロ院長とともにサヴェッラに上り、その同じ日に老貴族が死んで陰気な館と美しい庭のある屋敷が修道院に寄付された。
 そしてククールにもはや“出番”はなく、団長として帰還したマルチェロが称号を除いて名を呼ぶこともなかった。あの短い時間が思い返されるのは夜の闇の中で、それはたいてい鋭い針のような苦痛をもたらした。
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