Ghost....

 ククールは中庭に出て天を見上げた。星々は移り、朝はもう地平のすぐ向こうまで来ている。きつく拳を握り締めて、扉の前に立った。心臓は切り刻まれたように痛む。祈りの言葉は千々に乱れてどこかへ消えてしまった。
「――兄貴」
 声は震えていた。
「――兄貴、そこにいるんだろう?」
 押し開けた扉の向こうに影は深く。だがそのどこかにいるはずだ。そうでないはずはない。
「なあ、いるって言ってくれよ。――頼むから」
 影は深く、寒気は肌に迫り、何一つ見えない。ただの暁闇であれば暗すぎるほどには。足元にあるはずの階段さえ見えず、扉はさながらこの世の外に向けて開いたかと見えた。ククールは震えながら手を伸ばした。
「入って来いよ。帰って来い。俺はあんたを待ってた、世界中探して見つからなくて、だからここで待っていたんだ。俺にとってここだけが家だったのと同じに、あんたにとってもここだけが家なんだから。そうだよ、あんたはここに帰って来るって知ってた」
 だが答えはなく、闇はいよいよ深い。胸に渦巻く激しい恐れにも関わらず、ククールは意を決して足を踏み出した。この手はこの足ははっきりと浮かぶのに、周囲の一切は塗りつぶされている。あるはずの流れの囁きすら耳には届かぬ。あるいはそれは、あまりに激しい動悸が耳を聾していたからか。苦い風が吹いてきた。そのうちにククールは古い墓場の匂い、屍衣の匂いを嗅ぎ取った。
「応えてくれ……応えてくれ、兄貴」
 ククールはすすり泣く。それから起きたことについては定かでない。なにひとつ定かでない。これが現実なのか、それとも願っていることにすぎないことなのかすら。だがこのように言うことができるなら。
 光が灯った。弱い小さい光であった。ククールはそこに子どもの姿を見た。子ども、そうだ――、子ども。闇に縁取られた子ども。光はそのつぼめた両手の中にあって血の通う手を透かして赤みを帯びて瞬き、小さな体が闇に沈むのをかろうじて防いでいる。顔を背けているのでその顔を知ることはできなかった。黒髪は襟足を覆い、その細い首には金の鎖が下がっている。ククールはその先に金色のいびつな輪があることを疑わなかった。そうとも、どうして疑えるだろう。目には見えぬ邪悪と魔をさえ知る彼ではないか。求め請い切に心に描いてきた相手を間違うわけがなかった。だが知ったのはそれだけでない。ククールは麻痺したように立ち尽くし、自分と相手とのあいだに横たわる闇のどこかに越え得ぬ亀裂があることを知った。絶望が胸を引き裂き、その破砕の音は獣の咆哮さながら喉から迸った。
「あんたは死んだのか! 誰にも看取られず死んだのか! あんたの死体を食った虫を殺してやる! あんたを許さなかった教会を跡形もなく破壊してやる! あんたに扉を閉ざした人間を一人残らず殺してやる!」
 狂気じみている。ああそうだ、狂気じみている。だがこの胸の思いはもとより狂気。もとより激情。世界を破壊しかけた兄と同じ血を宿す弟ではないか。ククールは顔を覆った。世のすべての人を殺しかねぬ憎悪は、そうだ、兄が抱いていたものと似ていただろう。だが子どもは沈黙し、そして顔を背けたままだ。その姿からはどのような思いも読み取れない。ククールは引き裂かれた胸を右手で押さえつけ、きつく目を閉じて涙を振り切った。
「兄貴、なあ、なんか言ってくれよ。頼むから、こっちを向いてくれ。帰ってきてくれ。なあ、兄弟だろう、血を分けた兄弟だろう」
 声は響かず語られず、それでもククールは兄と信じた。灯りはわずかに揺らめき、そうとみる間に子どもはもはや子どもではなく最後に見たときの兄だった。襤褸のように裂けた衣は垂直に垂れて微動だにしない。深淵なる亀裂の向こう、一切に先立ち一切が終わってもなお存在し続ける永遠の凪のさなかで。
「――悪霊だっていいんだ、あんたなら。マルチェロ、あんたのためならいつだって扉を開けておくんだから」
 幽鬼は沈黙を守り、ククールは身じろぎもせず――
 音のない嘆息を聞いたような気がした。だが問い返すことはできなかった。ふいに光が揺れ激しく瞬いたからだ。闇は濃くなり、すべてを飲みつくそうとする大魚のごとく荒れ狂う。ククールはわれを忘れて叫んだ。
「ああ、灯りが消えちまう。マルチェロ、あんたが見えなくなっちまう!」
 その言葉が終わるまえに光は失せた。マルチェロの姿は闇に沈み、塗りつぶしたような暗闇にはもうなにもない。何も見えない。
「兄貴!」
 ククールの頬を滂沱と涙が流れた。生涯でただ一度与えられた貴重ななにかを取り落としたのだという絶望感が広がっていく。それは深い虚無で、ククールは自分が再びこの闇から立ち上がることはないだろうと信じた。
 だが風が吹いた。東の風がククールの頬を撫でた。冷たく厳しく、清い朝の風が。それともそれは違うものだったのだろうか? ほとんど見えぬほどに透き通った、だがまぎれもなくマルチェロのものであるひとつの影だったのか? 東の空に黎明が兆して深い闇は破れた。枯れた芝生は青ざめ、流れはほの白く浮かぶのが見えた。ククールは顔を覆い、膝をついてうずくまって、扉に凍えた頭を寄せた。涙はただ静かに頬を流れ落ちた。
 朝日とともにククールは、かつて人の手で扉の下に浅く埋められ、これまで誰にも気づかれることのなかった金の飾り輪を見出すだろう。それはその手の中で陽光に清らかに輝くだろう。夢の敷居を越えて遠く告げられたひとつの言葉のよう鮮やかに。
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