Hales, Caranthir....4/4

 部屋の隅で炎が燃えていた。炎は暗い部屋の中に照り返し、辛酸を重ねた男たちの顔をいっそう暗く見せている。ハレスはもうしばらく前から黙ったままでいた。
 ハレスは黙って壁際に蹲っていた。部屋の真中の暖炉の炎だけが唯一の明かりだった。穴倉のような部屋には、生き残ったハラディンの族の男のうち見張りを除く全てがやはり黙りこくってひしめいていた。これから話し合うのは一族の将来だ。だがこのあいだまで父の座っていた族長の椅子が空のままでは、決着がつくはずもなかった。互いの腹を探り合う重苦しい空気が立ちこめていた。
「――黙っていても始まらぬ」
 影の中で白い髭の男が立って言った。長老株のハルミアだ。
「サルゲリオンの領主からの申し出について考える前に、新たな族長を決めよう」
 沈黙はいっそう深まった。ハレスは頬杖をつき、明日はどの辺りにオークを狩ろうかと考えていた。連日の掃討によってもう南の森にほとんどオークの姿は見られなくなったが、ゲリオンの東の岸辺、青の山脈にほど近いあたりにまだ幾らか残っているかもしれない。中州の砦にはここ数日で思ってもいなかったほどの数の生き残りが森から姿をあらわし、合流した。エルダールの軍もまだ引き上げずに、対岸に陣を張っている。ハレスが守りにつく必要はなかった。
「おぬしは森に隠れていただけではないか!」
「そういうおまえこそ族長の地位を狙っているのだろう!」
 ふとハレスが我に返ると、部屋の中の沈黙は一転、あちこちから怒号が上がっていた。どの声にも聞き覚えはあったが、聞きなれない怒りを感じさせた。父親がいたときはその強くもない一言ですべてがすんなりと決まっていたものだが、とハレスは頬杖をついた。弟なら――弟もうまくやっただろう。どちらも今はない。部屋の怒号は次第に高まった。
「ハレス、……ハレス」
 ふと見ると、弟の妻ヒリルが小柄な身体をすっぽりと灰色のフードに包んで傍らにいた。
「こんなところで何をしている、ハルダンは」
「あの子はもう寝たわ」
 腕を絡ませてぴったりと身を寄せてきた弟の妻に、ハレスは落ちつかず小さく身じろぎした。女たちのなれなれしい仕草は好きではなかった。
「お願いよ、ハルダンを族長に推して」
 耳元に囁かれた言葉にハレスは答えなかった。ハルダンは弟の息子であり父から弟へと地位が受け継がれていたなら、確かに族長となる順序にいたかもしれない。だが、二つになったばかりの子供を族長にしておけるほどハラディンの族は平和ではない。ハレスはヒリルを見た。暖炉の炎のちらつく暗い部屋で、その顔はひどく愚鈍に見えた。
「――駄目だ」
 ハレスはそっけなく囁いた。だが部屋はもう怒号の渦になっており自分の声さえよくは聞き取れなかった。父がいれば、とハレスは苦々しく考えた。弟がいれば。誰かの風下に立つことを喜ばないハラディンの一族のなかで、彼らにだけは皆が従ったのに。横ではヒリルがまだ何か言っている。部屋の怒号は高まり、今にも殴り合いが始まっておかしくなかった。ハレスは立ちあがると階段を上がり、入り口の壁にたてかけておいた槍を取って部屋を出た。このままここにいれば、だれかれ問わず一人残らず殺したくなるだろうとハレスは暗くまた苦く思った。
 夕暮れの風は心地よかった。鎧を外した体は軽く、フードをはねのければ長い髪が流れ出て風をはらんだ。ハレスは中州の南端、見張りの丘に足を向けた。人影はなかったが、途中で通りすぎた幾つかの小屋からはにぎやかな笑い声が聞こえた。倉庫の前の見張りがハレスに向かって頭を下げるのが見えた。ハレスは頷いただけで答えなかった。
 黄昏は遠く西方に残っている。ハレスは小高い丘に立ち、石突を地についた槍に片手を置いて眼下であわさる川を見下ろした。涼しく湿気を含んだ風が吹き上げてくる。東方には青の山脈が黒々と夜の一方の壁となり、南方には暗い森が薄暮れの中に続き、遥かに消えていた。敵の影を求めない目でサルゲリオンを見渡し、ハレスはふいに美しい風景だということに気付いた。同時に不意にオークのことを考えるのに飽きた。
「――」
 そして考えないようにしてきたことが脳裏に上る。エルダールの公子、サルゲリオンの領主カランシア。その申し出は寛大だった。庇護と友情を約束するものだった。数少なく力弱いエダインにこれ以上のものがあろうはずはない。だがハレスは想像しうるそれらの日々を恐れた。恐れていることを苦い思いで自覚した。それは申し出に当たって公平にも公子の言い添えたこと――エルダールとともにあればやがて来る巨大な暗黒の敵との戦に巻き込まれるだろうこと――に起因するものではなかった。ハレス自身は、たとえ数十年あるいは数百年の平和の後にであろうと、ついに暗黒はあふれ出て、このベレリアンドにある限り何人も暗黒とそのオークの脅威を恐れずに生きることはできない時が来ることを漠然とながら感じていたからだ。
 ハレスが恐れたのは公子だった。すでに心は奪われている。だがあの殺戮の朝より先、いかなることも起きないであろうし起きることはないだろうことを知っていた。そうとも、終りない若さを持つ尊いエルダールと定命のエダインのあいだにいかなることがありうるというのだ。ヘレヴォルンのほとりの星の高殿に住むエルダールの殿と、地に掘った暗い穴倉に住むエダインの卑しい娘とのあいだに。戦いの場ではともに命を的として、隊列を組み槍を伍すことはできるのに。
 ハレスは押し隠してきたその思いに強く打たれ、厳しい寒さにあったように自身を強く抱いた。天と地から夕暮れの名残はすでに消え、夜の帳は落ちようとしている。今ここで公子に会えたら、と、ハレスは切に願った。ただそれだけを願った。
 だが願いはかなうことなく、沈黙は長く闇は落ちた。中州の先端は今は船とはみえず、いずこに進むことがあろうとも思えなかった。
 やがて夜が深更に達するとともに見張りの丘を松明の列が訪れ、ハルダドの娘が新たな族長に推戴されたと告げるだろう。ハレスの族、ハラディンの一族は女主の導きのもとにはるか西、長く憩いの場所となるブレシルの森へと向かうだろう。サルゲリオンの領主はその領境まで丁重にエダインの列を送るだろう。ハレスはついに夫を持つことがないだろう。そしてこの夜、川向こうで瞬いていた銀の星を、死の間際までも強い胸の痛みをもって思い返すだろう。だがサルゲリオンの領主、フェアノールの息子カランシアがいかなる思いをその長い生涯の果てまで連れて行ったかは誰も知らない。
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