kiss....

【キスする前に10のお題―10:ちゅぅして。】  
 暖炉で炎が燃えている。厳寒の冬の夜は窓の外に音もなく雪が降って、浜辺は白く染まっているだろう。灰色の濃淡のある雲を透かし、ヴェールを額に飾る少女のような月が夜空に宿っているだろう。無数の蓮のたいらな花弁のような波が冷たく寄せているのに違いない。
 赤々と燃える暖炉に太い薪をいくつかくべて、ククールは火炎を守る。すぐ側で、赤皮の四つ折本を開いているのはマルチェロだ。並んで座り、なにを語ることもなく、ただふたり、静まっている。
 そんな静けさに不満を覚えたわけではない。ふと思いついて、ククールはマルチェロを見た。伸びた黒髪を後ろにゆるく縛った兄は、立てた膝に肘を乗せ、かすかに眉を寄せて書物を読んでいる。金箔で捺された題はなじみ深い聖典のそれ。ククールは、兄がそれ以外の本を紐解いているところを見たことがない。少なくとも、このサザンピーク大陸の南辺、広大な砂浜の入江にとめた海辺の船の家では。
「兄貴?」
 ふと視線が持ち上げられて、こちらを見る。どこか遠い彼方をさ迷っていた精神が、千里を超えて戻ってきたとでもいいたげだ。
「キス、しようぜ」
「なんだ、唐突に」
 苦笑交じりの言葉が返ってくる。それもまた、まだ半ばは彼方にあるよう。それが苛立たしく、だが半ば自分自身に呆れて、ククールは兄の方に手を伸ばす。ガウンの厚手の生地の下に、厚みのある肩がある。それで少しは安堵して。また安堵したことに対してまたしても腹立たしさを感じて。
「キス、しよう」
「それはもう聞いた」
「終わらないキスをしよう」
「おまえはいつも、無理を言う」
「なら、それが無理なら」
 もう一方の手で、兄の膝から書物を奪って乱暴に脇にのける。膝立ちになって、兄の肩を押す。抵抗らしい抵抗もない。苦笑の気配はしたが。
「できるだけ長いキスをしよう」
 長い毛足の絨毯の上に長く伸びたマルチェロの、黒髪の頭の脇に両手をついて覆いかぶさり、その目をのぞきこむ。緑の目だ、なんて静かな。
 むかしその目の奥には炎があって、仰ぎ見ることさえできなかった。だがもうない。それは空の彼方に忘れられた。おそらく、それは人の世に場所を得ることのできないもので、世の人の誰にもどうにもできないもので、天の高みの空気の薄いあたりで、無限に拡散するしかなかったのかもしれぬ。だとすれば、それでよかったのだ。それとも良くないのだろうか。
 ククールは穏やかに凪ぐ緑の双眸を眺め渡して微笑した。
「あんたの目、真昼の海みたいで、さ。俺は、いつも」
 ククールはいったん言葉を切って、そっと額をあわせた。吐息がかかる。触れたところだけでなく、体温は狭い空間を渡って、肌の上に感じられる。床についた両手には、暖炉の熱にぬくもった絨毯の暖かい柔らかさ。
「いつも、道に迷ったみたいに、どうすればいいかわからなくなるんだ」
 大きな手が伸びてくる。ゆるく曲げた指の節が頬と唇を撫でて、その手はそのままうなじに触れる。ククールはくすぐったさに首をすくめた。と思う間にするりと柔らかい音がして、髪が落ち、リボンを盗んだ手が視界の端に引き下がる。視界の大きな部分を占める緑の目が細まって、笑った。
「晴雨の空を見上げるようだな」
 柔らかな声音は耳に、かすかな空気の震えは唇に触れる。こんなのって反則だろ、とククールは泣きたいように考える。あんたはこんなとき、いつもそんなふうに、曖昧に、なのに不思議にやさしく言う。まるで、そんなふうにしか話せないとでもいうよう。そして更にばかみたいなことには、俺はいつだって、そんなあんたの言葉で我慢ができなくなる。
 
 我慢の糸はそうしてふと切れて、ククールは唇を重ねた。柔らかいものを柔らかいもので探るもどかしさと、だんだんに思考の痺れる感じとが脳裏を占めた。薄く開いた唇のあいだに舌を忍ばせると、熱い舌が絡まってきた。ほとんどがむしゃらな気分になって夢中で舌を絡ませながら、手を伸ばしてマルチェロのシャツのあわせを探る。扱いにくい小さなボタンを外しながら、自分の胸元もそうして開かれててゆくのを感じた。
 固く尖らせた舌先と舌先の端をこすり合わせ、腰のあたりに甘く重い熱が走った。重ねた唇の端から熱い吐息が漏れて、ようやく最後のボタンを外し終える。つっかい棒にしていた腕を折って、胸を重ねた。そのとたん、激しく鼓動する心臓の音は二つ分、呼吸の都度の胸の上下も二人分に増えた。たまらず黒髪の頭をかき抱いて腰を腰にすりつければ、それぞれの衣服の中で固くなりかかっていたものが強くこすれた。
 不意打ちのような衝撃で大きく開きかけた兄の唇に、いよいよ口付けを深くする。そうしてしばらく腰を揺らしていると、ふいに、ぐいとシャツの裾を引かれた。見れば緑の目は揺らぎ、眉はかすかに寄って苦しげだ。きっと口付けを解いて息を吸いたいという合図なのだろうとククールは察したが、無視した。不満なようなくぐもった呻きが耳に触れる。熱した蜜の滴のよう。
 深く押し入った舌先で口蓋をたどりながら、じんわりと指を這わせてゆるい下穿きの前を解いてやる。しどけなくした布地の内側から引き出したものは熱く、もうひとつの心臓のように手の内で脈打った。やんわりと撫でれば、ぬめりが指先につたわってくる。手探りでしか感じられないのがぞくりとするほど面白く、また意地の悪い気持ちをかきたてた。
 もう唇もあごも頬も、あふれた唾液にぬれている。深く浅く、角度を変え、このキスは互いを食い合う儀式のようだ。唐突に兆した狂暴な思いのまま絡めた舌を思い切り吸い上げてやると、苦しげに眉がゆがんだ。その顔はククールの胸を突くようだ。
 ああ、そんなふうにして、辛そうな顔をすればいい、とククールは考える。息が吸えなくて、頭がぼうっとしているのはこちらも同じ。だがどうすれば、この胸の奥の甘いような苦いような、古い傷のような思いがおさまるのか俺にはわからない。あんたは海のようだ。俺の目は空かもしれない。降る雨は俺の髪のように銀色で、それは夢の中の風景のように懐かしい。 思いはとりとめもなく、ククールは自分が泣きたいのか笑いたいのかさえもわからず目を閉じた。燃え盛る劣情よりも、そうした思いは、強い。
 唇を重ね、体を重ねたまましばらく動かずにいると、不器用な手が伸びてきて、ククールの帯に触れた。ほとんど間をおかずするりと帯が解かれる。下穿きを引き下ろされて、熱いものが空気の中に引き出された。熱い指がからんで、ゆるゆると甘い痺れをかきたてられる。汗ばんだわき腹を同時になで上げられて、体が震えた。見れば、濡れた緑の瞳が細められている、甘い剣呑と、こちらの胸のうちを見透かしたよう、なだめるような穏やかさを含んで。ククールも笑って兄の唇の端をきつく噛んだ。そして考える。ねえ、これは、ひとつの、キスだ。



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