炎を掴む....

「用向きはわかった」
 しばらくの沈黙のあと、重厚な机に肘をついて、当代の騎士団長は短く言った。年齢だけなら初老とも呼ばれただろうが、鍛錬を怠らない体躯は重厚で、節制によって強健さを保っている。また鷲鼻と肉厚の唇は歳月と陰謀を乗り越えてきた指導者の揺ぎ無い自信としたたかさを示して余りあった。
 騎士団長は黙って、マルチェロを見た。有能な、それも衆に優れて有能な騎士見習いであることはよくわかっている。だがようやく背の伸びきった少年は、部屋に飛び込んできた直後に低い早口な聞き取りにくい二、三の言葉を告げた後はでくの坊のように立ち尽くし、おそらく自分では気づいていないだろうがきつく拳を握っていた。ランプは机の端に置かれて、広げられた回状の上の無数の署名や短い文章や吊り下げられた紋章を照らしている。
「用向きはわかった」
 騎士団長は繰り返した。それから、こちらをにらむように見つめてくる少年の緑の目を裏切って、唇の端で笑い、続けた。
「わかったが、受けぬ。帰って休むがいい」
 マルチェロの顔が青ざめ、握られた拳が震えるのが見えた。踵を返して足音高く立ち去るだろうかと団長は考えた。ありそうなことだった。誰よりも努力家で誰よりも院長を尊敬する――頭でっかちで理想主義のひよっ子だ。
 むろん、団長は知っていた。マルチェロの過去とさきごろドニで猛威を振るった悪疫について。また、この日の午後に修道院の門を叩いた子供のことも。その子供は受け入れられ、いまはオディロ院長の住まいの一角、孤児たちの暮らす簡素だが愛情をこめてしつらえられた部屋で安んじて眠っている。
 だが、どれほど苦渋の生い立ちであったとしても、マイエラ修道院を長年にわたり率いてきた騎士団長にとって、青ざめて立つマルチェロがくちばしの黄色いひよっ子であることに変わりはなかった。確かに将来は有望であろうし、どこか少年のかすかな危うい魅力を感じて、かつて近習に取り立てようと申し出たこともあったが、そのときは、マルチェロは自ら断った。ひどく真っ直ぐな目でオディロ院長以外の誰にも仕える気はないと言い切った。ならばこちらも乞食でも独裁者でもない、重ねてと強いることはしなかった。それで話は終わった。その程度のことであった。
「どうした、まだ用事があるのか」
 騎士団長は微笑を消さず、からかいをこめて問いかけた。マルチェロは動きもせず口を開きもしない。踵を返す様子もない。よほど思い定めていると知って、かすかな哀れみめいたものと、かつて稽古を終えた少年の汗ばんだ項にはりついていた黒髪に感じた情欲が胸に戻り、騎士団長は微笑を収めた。
「マルチェロ」
 青ざめて立つ少年の唇がかすかに動いて、返事らしきものをつむいだ。
「以前は俺がおまえに申し出た。だがおまえは拒んだ。そのとき受けていれば、どのような犠牲を払うこともなかっただろう。だがいまでは、おまえは私を買い取らねばならぬ。値は高価であろう」
 マルチェロはいよいよ青ざめていく。少年の顔の中で緑の目の牙のような厳しさだけが際立って、騎士団長の目を細めさせた。
「――どう、すれば」
 かすれた細い声がほんのわずかに漏れた。それは悪の匂いをかぎつけて戸惑う子供のか細い悲鳴のようでもあり、子供の自尊心をかなぐり捨てて泥にまみれつつ前に出ようとする苦渋の叫びのようでもあった。騎士団長は皮を張った豪奢な椅子の背もたれに体を預け、マルチェロを見据えた。
「おまえの叙任は二週間後だ。教理問答は憶えているか」
 戸惑うように黒髪の頭は頷いた。騎士団長は続けた。
「よし、わたしがここで、試験をしてやろう。おまえはそれに答えよ」
 拍子抜けとも安堵ともつかぬ表情を浮かべたマルチェロに向けて、騎士団長は微笑を見せ、それから光揺れるランプを示した。
「炎に手をかざせ、マルチェロ。できるだけ近く手をかざせ。そして問答のあいだ、動かしてはならぬ。首尾良く終わりまで耐えられたら…そのときは、おまえを抱こう」
 これは慈悲なのかと騎士団長は自問する。マルチェロ自身がほんとうにその意味をわかっているとは思えない申し出をこうして試すことは。これまで住んでいた光の側に退く機会を再び与えることは。それとも。
 それとも、これは単なる嗜虐であるのか、オディロ院長にも似て傍目にも輝かしく真っ直ぐな少年を、その底までも染め変えることの暗い愉しみなのか。
 騎士団長の視界の中で、マルチェロは糸で操られるようにゆっくりと左手を上げ、炎の上にかざした。天井は暗い翼でもかかったよう翳り、光は不安に揺れ、緑の瞳は破戒の暗い輝きとぎらつく挑発を孕んで騎士団長を見下ろした。
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