炎を掴む....

「用意はできております」
 マルチェロが言った。熱はその上にかざされた手指を舐めている。ガラスのほやのうちに飼いならされ、光だけをもたらすかに見えていた炎は、いまやその本来の牙でもって皮膚に食いついているはずだ。騎士団長はかすかな不安を背筋に感じた。それは必ずしも平穏ではなかった日々を生き抜いた鋭敏で強靭な神経ならでは感じ取ったわずかなものだ。
 だが、どこまで耐えられるものか試してやろうという底意地の悪さが蛇のように腹の底からそそのかした。机の上に肘をつき、緑の目を見据える。
「答えよ。汝、何を求めてこの地に至りしや。聖堂騎士団の門を叩きしや」
 それが合図だ。本来なら互いに騎士の正式の装束をまとい、剣を帯び、高い丸天井の荘厳な聖堂で交わされるべき教理問答の口火は切られた。生きた肉をあぶる細い黄色い火の照らすなか、得体の知れない予感とともに。
「聞け先達よ、我が願いは富貴にあらず、勢威にあらず。神の忠実なる道具となりて、地に御国を導かんのみ。いざ、信仰に満ち、願いを同じなる騎士方よ、新たな友を列に加えよ。しかして祈りと苦難をばともにせん」
 答える声は申し分なく明瞭だ。申し分なく明瞭で、わずかな震えもない。この瞬間にも熱と炎は肉と皮を焼いて黒い煤が上がっているというのに。あからさまに随所に置いた沈黙にさえ、わずかも焦れることなくその目は見返してくる。
 再び予感が兆した。今起きているのは、あるいは起きようとしているのは、かつての申し出を少年が受け入れていれば起きただろうこととは異なるだろう。それは、これまでに見たこのとなかったものかもしれぬ。
「応否の前に我らしばらく汝が信仰を試みん。問う。汝、神を識るや。答えよ」
「我が知るところを聞け、先達よ。神は創り主、神は裁きの日の主宰者なり」
 奇妙なことに、その考えは騎士団長をむしろ煽った。正確無比に返される返答とその発音のゆるぎなさ。裏腹に青ざめていく少年の顔と部屋に漂い始めた生きた肉の焼ける臭気。背中に感じる予感は不安を通り越して危険の合図。同時に獲物を前にした獣なら感じたであろうひきつけられる魅惑。
「さらに問う。汝、いかにして神いますを識れるや。答えよ」
「我が知るところを聞け、先達よ。神は陽と月の光輝もていと高き栄光の冠をはるかに示し、嵐と雷鳴の力によって及ぶものなく強き御手を示したもう」
「然り、汝は神を正しく識れり。いまや我ら、汝の信仰の正統なるを知れり」
 マルチェロの額から、その顔を過ぎって一筋の汗が流れ落ちた。炎の上の手指の皮膚は煤け、見て取れるほど赤く乾いた。熱は肉を噛み裂くようであろうと騎士団長は考える。だが、マルチェロに引く様子はかけらもない。それは一徹の強情を目の当たりに見る胸のすく感嘆よりも、ねっとりとした悪寒とも性感ともつかない生々しいもので、いやに冷たい汗が背に滲んだ。
 煽られていると自覚する。だが引くつもりもない。善悪の両方を底まで見てきたと自負してきた豪胆な騎士団長は唇を舐めて、先を続けた。
「――重ねて問う。汝、いかにして神の意に添わんとするや。答えよ」
「ひたすらの信仰もて」
 またマルチェロの額から汗が落ちた。手は炎の上で萎びていく。熱でひずんだ爪が音を立てて割れ、何滴かの血が落ちて、炎を揺らした。
「汝の主たる徳を述べよ、汝の憎むところの悪を述べよ」
「我が主たる徳は忍耐と謙譲、また時にあたっては鉄扉の塔のごとく獅子のごとく死に至るまで戦う勇気なり。しかして…」
 そのとき、マルチェロの腕が震えて炎から逸れた。騎士団長が問うように視線を向ければ少年の唇がわずかに歪み、続く文句を騎士団長は聞き逃した。
「――我が憎むところの悪は怯堕と虚偽、偽善なり」
 マルチェロの右手が伸びて左手をつかみ、苦しみ震えるその焼けた手を再び炎の上に引き戻した。それだけだ。悲鳴を上げる肉体に宿った悪霊のように、この魂は意志を貫いている。騎士団長の背筋を明らかな悪寒が駆け上った。
「そは魂を腐敗と堕落に導けばなり」
 マルチェロは言葉を終えた。騎士団長は最後の結びの言葉を留める。だが何を待っているのか。この不法に引き伸ばされた時間にも、マルチェロは立ち尽くして苛立ちの気配を見せない。天井に映る影を暗い翼と背に負って。
 騎士団長は無言で、ランプを机上から払い落とした。音を立ててガラスは割れ、灯りは失せた。事態は明らかだった。マルチェロが勝ったのだ。
「然り、今や汝は汝自身を明らかにしたり」
 言葉は震えて、闇に響いた。その後に続くはずの祝福の言葉を騎士団長は口にしなかった。マルチェロを部屋に入れるべきではなかったという悔恨がひしひしと足元から上がってくる。いまここで示されたのは、恐るべきことだ。彼の知る人間のいじましい邪悪やこそこそとした虚飾などとは質が異なる。
 あまりに異なる! 騎士団長はむしろ呆然と闇の向こうの影を見た。
「試験は終わりでございますか」
 闇が口をきいた。
「おまえは…」
 怯えた声だと騎士団長は考える。こんな調子でいったい役に立つのかと。そう考えた瞬間、欲情が戻ってきた。あれだけのことをして見せた少年は、だが同時に、ただの少年の肉体をも備えているだろう。もう長いあいだなかったほどに激しくいきり立つ己を感じながら、騎士団長は立ち上がった。
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