炎を掴む....

 晴れた秋の日だった。叙任式を終えたマルチェロは、藍の香さえ新しい騎士服に身を包んで石の回廊を過ぎ、騎士団宿舎を通り抜け、流れを隔てて院長の館に続く裏庭を歩いて行った。歩みながら、いつも朝は変わりなく訪れ、太陽は昇り、日々は来る、と考えた。それはもとより明らかな、あまりにも明らかな事実だ。しかしそれについてある種の感慨を抱くのはまったく別なことだ。
 このときなにかが背後にあった。それは形定まらぬ暗いもので、明るい光の中でさえ気配はときおり身に迫り、マルチェロをぎくりと身震いさせた。確かに石の回廊で銀髪の子供の名を聞いた瞬間から付きまとい始めたのだ。だが、とマルチェロは考える。だが以前からあった。そこにあった。ただ気づかなかっただけだ。気づかぬようにしてきただけだ。用心深く立ち回って。
 しかし、それに慣れるまでに時間がかかるだろうことも確かだった。新しいことやものに慣れるには、どうしたって時間はかかる。喉に擦れる高い襟の騎士服を着たり、大きく重くて落ち着きの悪い印象指輪をはめたり、騎士団長の重い一物を体に受け入れたりするのだって、慣れるまでに時間がかかるだろう。時間はかかるだろう。だが、どのみち慣れる。そして勝手もわかる。
 これだって同じことだ、とマルチェロは考える。だがそれは気休めにならない。あのとき手が震えたのは、痙攣ではなかった。怖かったのだ。火、ではない。己の悪意が。自分自身を滅ぼし尽くそうともおそらく消えぬであろうと知って。あるいは世界を滅ぼすほど深く、それほども激しいことを知って。そうだ、豪胆な騎士団長でさえ怯え恐れたではないか。ならば一介の騎士見習いであり、いまも一介の新米騎士でしかないマルチェロが恐れたとしても不思議はない。
 だがそのうち慣れる。そうとも、いつも朝は変わりなく訪れ、太陽は昇り日々は来る。ならば慣れぬものなどない。マルチェロは守護の呪文のように声を立てずに呟き、橋を渡って、オディロ院長の円形の住居の扉を押した。
 館の中はしんと静まり返っていた。常ならばはしゃぎまわっている子供たちの姿はない。白昼とあって、学び舎の方にいるのだろう。妙にがらんとした空気の中に、マルチェロは影から先に足を踏み入れた。
「おや、マルチェロではないか」
 扉の開く気配に気づいたのだろう、書棚の方から姿をあらわしたのは年配の修道僧だ。子供たちの世話をしながら老いてきたその顔は、いつも少しばかり笑みをたたえているように見える。皺の中の目が細められた。
「ほほう、立派な様子だ。叙任式は無事に済んだようだな。さあ、上に行って、オディロ院長に騎士になったところを見せて差し上げなさい」
「――しかし、ご様子は」
 修道僧は力づけるように微笑んだ。
「大丈夫だろう。ひまだと言って、寝台で羽根ペンをいじくっておいでだ」
 マルチェロは頷き、軽く頭を下げて謝意を示すと階に足をかけた。段を上り、また段を上り、二階に着いたときには得体の知れない胸苦しさを抱えていた。慣れないものが胸を領し、心は重い。だがせめてオディロ院長の前では明るく振舞おうと頭を向け――そのまま立ちすくんだ。
 子供が泣いている。銀髪の子供が寝台にすがって泣いている。寝台に座っているのは長い白い髭の院長だ。慈悲に満ちた目をして、骨ばった老いた手で、子供の髪を撫でている。色とりどりの光は天窓からその上に落ちている。
「……」
「――な」
「……」
「――。――よ、ククール」
 気づかぬうちに両手を握り締めていた。うそ寒いような空気が足元から吹き上げてくるようだ。それは秋の風ではない。実体のない悪意だ。
「マルチェロ」
 どれほどそうしていたのか。名を呼ばれて、ふいに我に返った。老人の静かな青みがかった眼差しがこちらに向けられている。それでも動かずにいた。その膝元に銀髪の子供がいる。オディロはかすかに嘆息し、泣き止んだ子の肩をやさしく揺すぶった。
「すまんのう、ククール、階下で待っておいで。マルチェロと話があるのでのう」
 泣き腫らした目でこちらを振り返った子供を、マルチェロは見ない。その子が院長に頷いてみせ、軽い足音を立てて傍らを走り抜けて視界から消えるまで、自らの意思でわずかの身じろぎもしなかった。
「マルチェロや、さあ、おいで」
 ぎこちない足取りで歩み出る。のろのろと。寝台に座る老人は一言も責める言葉を持たない。ただ愛情に満ちた眼差しが注がれ、微笑が静かに広がる。マルチェロは寝台から少し離れて立ち止まった。見上げれば頭上の窓から光は落ちている。これは、ほんとうの光のようだ、とマルチェロは考えた。
「よく似合う。騎士になったのじゃな」
「……はい」
「おまえの叙任式に出てやれなんで、すまんのう」
「お体を……いたわって下さいませ」
「良い子じゃのう」
 オディロは右の手を伸ばした。マルチェロは寝台の脇に近づき、膝をついて、その手を両手で受けた。顔を上げれば、子供のときに見上げたときのようだ。背丈もいまはとうに追い越してしまった。すぐ近くでオディロが言った。
「信仰とともにあれ。慈悲と正義とともに進み、力のかぎり高く光をかかげよ。――汝の上に神の祝福あれ」
 マルチェロは頭を垂れ、与えられた祝福を受けた。期せずして涙がこぼれた。だがそれが何のためなのかは定かでない。手の中の老いた手を握り締めた。こんなにも細かっただろうか、こんなにも。
「――あなただけです」
 マルチェロは囁いた。声も涙で震えている。十歳の子供のように。
「わたしの父は、あなただけです…」
 頭を撫でる手がある。やさしく撫でる手がある。堰を切ったように泣きながら、それでもマルチェロは感じていた。悪意はこの瞬間も、凍りつくような気配で傍らに立っている。それは確かにそこにあって、彼を離れようとはしない。
 オディロの祝福は空しくなるだろうと、マルチェロは遠く知った。
 
 修道僧はふと顔を上げた。銀髪の子供が急ぎ足で階段を駆け下りてきた。いつの間に入り込んだのかと首をかしげた。
「どうしたね、ククール?」
 子供は怯えたようにぱっと顔を上げた。
「ククール?」
 子供は首を振り、階上を見上げた。奇妙な怖い動悸が胸を占めている。
 あのおぼろなやさしい光の中で、なぜ、若い騎士の影だけがあんなにも暗く、あんなにも断ち落とされたように黒々としてわだかまっていたのだろう?
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