プロローグ....

 緑の水槽には、少年でも少女でもない身体が浮かんでいる。水平に伸ばされた両手の先とまっすぐに立つ足の爪先を固定するのはチューブの群だ。仰向けられた顔は少年と言うには美貌に過ぎ、少女と言うには玲瓏として冷たすぎる。槽を巡る水流はかすかにその額の巻毛を揺らしていた。
『呼吸、脈拍、正常』
 メーターを読み上げる声が響く。周囲は暗い。弱々しい太陽のような水槽の緑の光の及ぶ範囲だけがその色に与かっている。
『臓器形成完了、自律系以外の筋肉は予測値以下。準備が整い次第訓練を必要とします』
 玉を転がすような女声は、部屋の隅の拡声器から聞こえる。
『有機系と金属骨格との接続は良好。臨界期に入りました。“リーズン”を入力してください』
 石の床の上をうねうねと這うコードの群を越えて、男は足を進めた。緑の光が老いた顔を照らし出す。落ち窪んだ目、乾いた唇、たるんだ頬、深い縦皺が割る額。歳月よりも多く、苦悩がそれらを形作った。
『“リーズン”を入力してください』
 声が要請する。男はガラスの器に手を沿わせた。
『“リーズン”を入力してください。臨界期はあと三十秒です』
 促されて、男は手に持ったマイクを引き寄せた。
「……。………」
 最初の二つの言葉を告げたあと、ふいに、ひどくふいに男の顔に苦しみとも悲しいともつかない影が過ぎり、一瞬、ためらいが萎びた口をつぐませた。だが結局、最後の言葉は男を離れた。
「……」
 男の言葉に反応して暗い部屋の壁面を埋める全てのパネルが光を放ち、演算を繰り返す機械のブゥンという低いささやきが部屋に満ちた。数秒のあいだそれは続き、やがて途絶えた。
『プログラムは正常に終了、入力はすべて正常に終了いたしました』
 女声が告げた。男は目を細めて水槽の中に浮かぶものを見上げた。今はまだ眠るものを。
「レイガナ・オーガニア」
『はい』
 女声が優雅に答える。
「凍結機能を作動してくれ」
『規定二十八事項につき、入力内容を繰り返します』
 声は言う。
『EX01の凍結機能を作動しますか』
「そうだ」
『入力を再確認いたしました。固体番号EX01の機能を凍結いたします』
 緑の水槽はその光を濁りはじめた液体に曇らされてゆく。部屋が完全に闇に包まれるのと同時に、美しい女声が告げた。
『識別番号EX01の機能を凍結。プログラムは正常に終了いたしました』
 老いた男の拳が節々を白く染めて握り締められた。
 ――見る者さえなかったが。
 
 
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