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彼は山の中腹で足を止め、正面に上りつつある太陽に手をかざしながら辺りを見渡した。吐く息は白く、秋ももう深まりつつあるというのに、茶色の長衣を着込んだ体はびっしょりと汗に濡れている。 荒れ果てた山だった。斜面には無数の巨木が立っていたが、それらは一様に死んでいる。木々は枝を張り、節くれ立った樹幹と根を持ち、だが緑の葉も巣を作る小鳥も、木の実を糧とするリスやキネズミたちもない。形をとどめながら生命を失った木々の列がどこまでも続くさまは、午前の光の下でさえ、背筋にうそ寒いものを感じさせた。 彼は声を立てずに息を吐き、フードを背中においやって、汗ばんだ額を大気で冷やした。あらわれた顔は少年の清潔さを残してまだ若く、整った造作は美男子というには少し線が細すぎる。汗で鼻の頭までずり落ちた眼鏡をはずし、汗で曇ったレンズを袖で拭って元に戻した。明瞭になった視線を向けた先は、手に持った金属の小箱の計測器だ。 メーターの針はしばらく迷うように首を振っていたが、やがて目盛り盤の赤で塗られた区域に近接して止まった。 「……ここもか」 下を向いた時にまたもやずれた眼鏡を人差し指で鼻の頭に押し上げ、脇のポケットから小指ほどの大きさのマイクを取り出して口元に寄せた。 「記録を始める。時刻は1008年10月25日午前7時22分38、39秒。現在の位置は北緯40度23分、西経4度01分。ダオメーから北北西へ三十キロのゆるやかな山岳地帯。周囲に生命反応は見られず、樹木は立ち枯れています。放射線は危険域には達していませんが正常値を外れています。以上、記録者ランカース・アズナン」 マイクをポケットに戻すと、ランカースは額を拭い、荷物を背負った。再び歩き出せば、靴の下で、草の形を残したまま死んでいたものが塵に返るさくさくという音が、すべてが死に絶えた沈黙の中に始まった。 緩い傾斜を上りきり、木立を抜けて大小の石が散らばる稜線にかかり、ランカースは再び計測器を取り出した。見ればわずかな距離のあいだに、針は赤の領域までもうぎりぎりのところまで上昇している。 見渡す風景は、明るい日差しの中で、どこまでも死んでいる。以前にはどこまでも緑の森だっただろう山々は暗く、天に掴みかかるような死んだ木々の梢が連なって、吹き渡る風に、ときおり乾いた音をたてた。 「ここまで、か」 諦めたように呟いて、ランカースはマイクを背に流したフードに計測器とマイクをほうり込んで、腰を下ろした。 そのとき、荷物の中から鳥の鳴き声に似た甲高い音が聞こえてきた。 「……っと」 せかすような音にランカースは慌てて荷物の口を縛る紐に手をかけた。しかしどうも結ぶときの方法がまずかったらしく、固い結び目はなかなか解けない。爪を立てて悪戦苦闘して、ようやくほどいた荷物は横に倒れてごちゃっと中身を吐き出した。 「ちょ、ちょっと待って」 じれるように大きくなった音に、ランカースはぶつぶつと言い訳しながら靴下やシャツをかき分け、音源を取り出した。それはてのひらをあわせたほどの大きさの扁平な金属製の箱で、ランカースは左手の中指にはめていた指輪の石を表面の窪みにあてがった。 「こ、こちらランカース」 その瞬間、なにもない中空に四角い平面が浮かび、そこに灰色の髪と目をした痩せた初老の男の顔があらわれてぎろりとこちらを一瞥した。 『遅い』 単刀直入な雷に、ランカースはほとんど無意識に首を縮めた。 「すいません、テルステア教授。その、えー……」 『君が鼻垂れの時からいつもいつもいつも言っているがね、君の荷物はいつでも秩序とは無縁だね。まったく整理整頓という点では進歩がない。いざというときにはそうした普段の行動が命取りになるのだよ。だいたい日用品と機材くらいどうして分けようと思わないのかね、君は……』 なおも小言を続けようとして口を開き、ふいに本来の用事を思い出したらしく、テルステアはごほんと咳をした。ランカースは恩師が年来の説教を繰り返さなかったことにほっと安堵しかけたが、次の瞬間に凍りついた。 『学長の要請だ。ライブラリに戻りたまえ』 じろり、とテルステアの視線が強張ったランカースの顔を見据えた。 『返事をしたまえ、ランカース。都合が悪くなるとだんまりを決め込むのは悪い癖だと何度言ったらわかるのかね?』 「あ、あの……」 『それは君、返事になっとらんよ』 「そ、その……」 『おい、年寄りだと思ってわしをバカにしとるんじゃなかろうな?』 「教授! 僕はまだ調査の途中です。帰りたくありません」 テルステアは眉間の皺をいっそう深くして、チッチと何度か短く舌を鳴らした。その顔がためいきをついて再びこちらを向き直るまで、ランカースは黙って待った。 『ランカース・アズナン研究員』 落ち着いた穏やかな声は、有無を言わさぬ響きを持っている。 『わしは君を好き勝手させとるし、それについては何も言ったことはない。だが、学長の要請ということの意味は知っているね』 ランカースはうなだれた。 『一番近いのはダオメーだな? 迎えを出す。急いでくれ』 「……はい」 テルステアは画面の中で片手を上げた。子供に向けるような辛抱強い微笑が頬に浮かんでいる。灰色の目が元気付けるように片方つむった。 『平安な旅路を祈る』 その言葉を最後にぷつりと映像は消え、同時にそれを映していた平面も消えた。代わりに数枚のパネルが金属光沢を保ちながら規則正しく宙で回転している。その反射は太陽のある方向とは関係がなく、その回転は全ての物理法則を無視してゆるやかに機械的に行われている。 ランカースが再び指輪を箱の窪みにあてがって回転させると、同時に、宙に浮かんでいたパネルがつと消失した。後には何一つ残らなかった。それは少しも不思議なことではない。それらは元からありはしなかった。ただ箱が脳の視覚野に干渉し現出させたものにすぎない。 「戻る、か」 ランカースは俯き、死んだ山々を見渡した。 |