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「世の初め、白熊の兄弟神が相計って天上に上ろうとした。兄を先に弟がしんがりをつとめて氷から削りだした長大な梯子を上った。しかし赤鷲の太陽神はその愚挙を喜ばず、炎を投げ落としたので、巨大な体の兄弟は焼け死んで梯子から落ちた。太陽神は死んだ兄弟の身体を使って大地を作った。ひどく焼けこげていた兄の体からなった大地は不毛となり、弟の体から作られた大地は豊穣となった」 イ・シ族『創世神話』 「そもそもの初めのとき、地に実りを与える女神ク・ヴァールがその恵みを撒きながら大地を馬車で走った。しかし、そのおり、魔物エナランが蚤に化けて馬のたてがみに潜み、ひどく噛んだ。馬は痛みのあまり激しく跳ね上がったので、恵みの賜物はほんの少しづつしか大地に触れず、多くの大地は不毛のまま残された」 ナイアハ『エルック書』 「かつて神と人は仲良く森で暮らしていた。しかしあるとき、一人の人間が殺人の罪を犯し、神々は汚れを嫌って天上へと立ち去った。罪を犯した人間の歩いた跡には死の呪いがかけられ、森はそこから枯れ始めた。そして、人間は神の失われた大地で全ての罪の償われるときまで生きてゆかなくてはならないのである」 フッラー教徒信条第四章二節 * ダオメーは水都である。大河メトシュの中洲に浮かぶ街を行き交うのは柳葉の形をした色鮮やかな小舟で、大きな店や寺院の前にはいくつもの桟橋が築かれている。信心深い都の水路にはきらびやかな白塔の影が映り、小舟を巧みに操る船頭たちが威勢よく怒鳴りあう声が響く。 対岸で渡しの舟に乗り込んだランカースは、見かけより軽い荷を船底に置いて、ぼんやりと都を見ていた。三方から流れ寄った支流の水は、町の上流で交わり川幅を増して一つになり、海へと向かう。 「お客さん、町だよ。どこへやるね」 船べりに立つ恰幅のいい老船頭に言われて、ランカースは顔を上げた。すぐ横を干し草を山と積んで喫水線ぎりぎりまで水に浸かっている荷船が通り過ぎる。 「分室へやってくれ。ええと、ライブラリの」 ランカースは頭の上から降ってきた藁を隣の船に戻しながら怒鳴った。町の中心部の水上市場の喧騒が迫ってきていたのだ。水上の舟はそのまま露店になる。売っている物は様々だ。 「あいよ」 色鮮やかな野菜や、絹や、金箔を貼った神像や。日焼けした顔の男や女がものめずらしそうに笑みを見せ、商売のあいまにこちらに手を振る。少しためらいつつ手を振り返せば、どっと笑いが起きた。 「にぎやかな町だね」 太った船頭が棹を使いながらランカースを振り返った。白と黒の鮮明な船頭帽に朝の光がさした。 「そうでもないさ。そら、異人さん。向こうの山をごらんな」 指差された方の地平にうずくまるのは枯れた山々だ。ランカースは目を細めた。船頭は巧みに舟と舟との間を漕ぎ抜けながら言った。 「十年ばかり昔はみんな緑だったんだ。今じゃあ、一年中ああさ。獣一匹住みやしねえ。そのうちに、あのおっかねえ光も…」 そこで船頭は長い棹を水面に持ち上げた。水音が止んで小舟は漂う。光が陰り、ランカースは顔を上げる。白い石造りの館の前だ。 「さぁて。銅貨三枚だよ」 ついと水底に棹をさして小舟をとめ、老船頭が言った。相場より少し高い船賃だったが、ランカースは頷き、荷物を取り上げて立ち上がった。 「ありがとう」 ランカースは言って、銅貨を三枚、船頭のしなびた手に落した。 「また乗っておくれよ」 船頭は桟橋を離れ、のんびりとした客問いの歌を歌いながら遠ざかって行った。その姿を見送り、ランカースは遠い山々を見上げた。暗い山頂の影はそう遠くないうちに長くのびて、この都を飲み込むだろう。 「……」 ランカースは何も言わず、門扉に手をかけた。重厚な扉は音もなく開き、背後で音もなく閉じた。とたんに町の喧騒は遠ざかり、ランカースは赤い上等の絨毯を敷き詰めたホールにいた。奥の突き当たりで、短い金髪の青年が優雅に頭を下げる。連絡は行き届いていたのだろう。 「ダオメー分室のシジュア駐在員です。ランカース研究員ですか?」 「はい。お世話になります」 ランカースは軽く頭を下げた。シジュアはランカースのものと似た茶色の長衣の裾をひるがえして一礼し、奥へと手招いた。 「まずは、こちらへ」 どこの分室でも、最初の儀式は同じだ。ランカースはホールの袖の壁に設置された鏡面の前に立たされ、下の方に張り出している台に、描かれている線の通りに両手を置いた。覗きこむようにして鏡に顔を近づけると、そこから緑色をした光条が上下に走って網膜の毛細血管の様式を読んでいく。その間に台に置いた手では指紋が確認された。 「ただいま、レイガナ」 最後は声だ。間をおかずに優雅な女声が流れた。 『お帰りなさいませ、ランカース・アズナン研究員。ようこそライブラリへ』 鏡面に映ったシジュアの表情が、ふっと緩む。生まれ育った場所を出て仲間のいない外の世界に一人出て行く駐在員には仕方がないことだ。 「どうぞ、奥へ」 促されるままホールの奥の扉を入れば、少しばかりの下り階段で、その奥には何の変哲もない通路だ。ただし見かけどおりの館の造りとするならあまりに長い。長すぎる。ダオメーの富裕な商家めいて置かれている壷や絵がむしろ滑稽なほどだ。 「これは……どこまで?」 うろんな目つきではるかに消失点を見ながら、ランカースは訊ねた。 「外の簡易連絡港までですよ。長さは一キロちょっともありますか。というと、みなさん驚かれますね」 シジュアは笑って答えた。ランカースも苦笑して頷く。 「もうここの駐在をして長いのですか?」 シジュアは頷いた。 「三年になります。専攻が土木工学なので、ダオメーでも建築物の修繕に関わっておりますよ。水上都市の常で、ここも水没が悩みの種で」 「ああ、なるほど。ここは暮らしやすそうな町ですね。食べ物も豊かだし、何より人がいい。外部の人間をむしろ面白がっているようだ」 「年末で任期が満了するので、帰国が待ち遠しいですよ」 「それは……」 「まあ、町の人間とは仲良くやっていますよ。しかし外の人間には、やはり我々には仲間内のようなわけにいきませんからね」 その言葉の中に含まれたある種の拒絶に、ランカースはちらりと傍らを行く青年を見たが何も言わなかった。地上の多くの民族が伝える歴史の始まり以前から連綿と続く、科学と文化の孤城ライブラリ、その方針がどれだけ隠密で宥和的であったとしても、一人ひとりの意思や考えが必ずしもその通りであるわけではない。世界中に散らばる分室の駐在の希望者は少なく、選ばれたもの全てが外部の町や人に愛情を持てるわけでもない。 またしばらく歩いたころ、シジュアがふと顔を上げた。 「あなたは?」 「専攻ですか?」 「いえ、そうではなくて」 シジュアは短く言う。ぴったりと後ろに撫で付けた髪は、確かにこの水の都の住人らしくはない。ランカースは質問の意図を了解して苦笑した。 「私はノラです」 「ほう」 シジュアは礼儀正しく驚いてみせた。 「役目でもないのにわざわざライブラリを離れて?」 「そうですね」 ランカースは短く答え、ばつが悪そうに、シジュアは空咳をした。きりのいいことに長い通路は目の前の白い鉄の扉で終わっている。シジュアが手をかけ、重たい扉がかすかに音をたてて開いた。涼しい水の都の風が頬に触れる。 「どうぞ」 ランカースは日差しに手をかざしながら歩み出た。 |