Mist....

 周囲を廻る海流から立ち上った濃い霧が、北辺の聖地サヴェッラをすっぽりと包むことがある。それが見られるのは早春の数日、暁から朝の風に吹き払われるまでのほんの短い時間にすぎないが、曙光を受けて輝く純白の靄は人の世を超越した荘厳さを感じさせ、神の息吹になぞらえられて世の驚異の一つに数えられてきた。
 マルチェロはもちろん、サヴェッラの霧のことは書物で知っていた。また昨夜遅く、春の先触れを感じさせる温かな風に浮かれた僧たちが、明日あたりは霧かもしれぬと言い合い、すっぽりと町を覆う靄について語るのを聞きもした。だがその言葉は、十分の一も真実を伝えてはいなかった。マルチェロは霧のさなかに視線を走らせる。この空恐ろしいばかりの様子はどうだ。空間はそれ自体が光と化し、十二方位を白く閉ざして十歩の先さえ見通せぬ。怯える馬の手綱を引く間もその黒髪にまた睫毛に暖かな霧は露となって結んでゆく。歴代の法皇はこうした朝には好んで逍遥の喜びに浸ったと伝えられる。だがこのとき教会の鐘は頭上に慌しく鳴り響き、急を告げていた。
 病身の法皇の失踪が知れたのはつい先ほど、まだ暁闇の残る間のこと。寝台にも庭園にも姿がないことに部屋付きの侍女が気づいた。何分にも活動的とはいいがたい老人の所在が知れぬとあって騒ぎは瞬く間に広がり、ついには心利く騎士団長が自ら起き出して探索に加わったという次第。少なくとも人々はそう信じていよう。だが騎士団長マルチェロは知らぬ。
 マルチェロは右手で濡れた顔を拭った。見上げても見渡しても白い闇だ。聞こえる教会の鐘の耳慣れた音色なくば、天国か地獄かに迷い込んだとでも信じるところであろう。そして己の行き先がそのどちらかであるかといえば、今やマルチェロには自明のことだ。
 マルチェロが手綱を引き絞り、濡れた顔を拭ったそのとき、霧が走り始めた。濡れた頬に感じる風は冷涼。それでは島の中央に聳える高台から吹き降ろす風が目覚めたのだ。乳の海のごと渦巻き周囲を満たしていた霧は、目前にあって濃淡の筋を女神の衣の裾のごとく軽やかに引いて走り去ってゆく。視界は常緑の芝に広がり始め、そして頭上高くにひとひらの空を臨み見た。青い空であった。青ざめた空、悲しみ哀しむ一つの目さながら青い空であった。マルチェロはわずかに目を見開き、唇は当人すら気づかぬ間に祈りを囁いた。
「――いずこにおわすや神よ」
 あるいはこのとき、何かが起きえのたかもしれぬ。だが起きはしなかった。それはつまり、そのときかすか暗い風が吹き、怯えた鳥の一群さながら最後のひとむらが飛び去って、横たわる赤い色を示したため。穴という穴から血を流し、うつろに目を見開いて息絶えた無様な死体を一つ示したため。マルチェロは身内に突き上げた暗い思いの命じるまま左手の杖を掲げた。
「いずこにおわすや神よ!」
 そして公然と侮蔑の笑みを浮かべ、死者を見下ろした。己自身と世界に復讐の一端を果たした喜びが身内を満たしていた。暗い喜びではあったが、それでも喜びには違いはなかった。
menu