Phantom....

『商船テナシチー』:
 
「運命は、従うものを潮にのせ、抗うものを曳いてゆく―」
 壁にかけられたポスターに、マルチェロはふと見入った。手書きのそれに書かれた公開日付は、もうよほど昔のものだったが、最近、この通りの先の小さな映画館では名作映画の上映を始めた。おそらくはその宣伝だろう。
 歩行者天国の商店街の一画、小さな喫茶店の窓際の席で、マルチェロは、ポスターの端に書き込まれたコピーの意味を考えた。眉間には描いたように二本の皺が浮いて、彼を知る人間ならさもあろう、何もかも運命と片付ける甘っちょろい言葉に不機嫌になっているのに違いないと考えたに違いない。
 実際、そうであったとしても不思議はなかった。マルチェロという男は、いわば、クールでタフで、得体の知れない男だ。人殺しも盗みも躊躇せず、いかなる種類のモラルにも掟にも、そして法律にも縛られていない。
 銃撃戦で十人も殺して銀行の金庫からあり金すっかり盗みだしたあとに、白いスーツについた血の染みを蘭の花で優雅に隠し、上流階級の紳士淑女に立ち混じってダンスの一つも踊ってみせる。その翌日には観光客に混じってルーブルをうろつきながら盗む絵を物色し、そのあいだに郊外の小さな教会では匿名で大金が届くという具合だ。
 付け加えるなら、さらに翌日には小さな教会の神父が謎の寄付金を持って出奔した記事が出ていないかと三面記事をたんねんに読むような。要するに誰も彼が何のために動くのかを知らなかったのだ。しかも、彼を阻むこともまた誰にもできないことだった。
 運命という言葉には、およそ縁遠い男だった。それにも関わらず、運命が「ある」とマルチェロは思っていた。信じていたといってもいい。
 
 いつだったか、マルチェロは言ったことがある。相手はもう死んだ。
「私は信じているんだ。私は信じている。それはこういうことだ。たとえばある朝目覚めると、見たこともない場所にいる。それとも知ってはいるが、思いがけない場所にいる。ぼんやりしていると扉が開いて、誰かが入ってくるんだ。男かもしらんし、女かもしらん。知っている相手かもしらんし、顔を見たこともない相手かもしらん。だがそれはどうでもいい」
 秘密めかすように声をひそめる。相手はあるギャングの親分だったが、得体の知れない思いに首をすくめた。もちろん後ずさることはできなかった。
「そいつは私に笑いかける。そして朝食の用意がもうできていると告げる。急がなければ勤めに遅れると。それで私はその通りだとわかる。わかるか。そいつを殺すことはできないとわかるんだ。わかるか? つまりこういうことだ。私が拳銃を持ってそいつの前に立ったとしても、けっして引き金を引けない、けっして傷つけることはできないとわかるんだ。朝食のパンがかりっと表面が固く、内側が詰まったベーグルだとわかるようにな。しかし話は変わるが、私はお前は殺せる、豚を殺す豚のような気持ちでな」
 そしてマルチェロは芝居気たっぷりに指を鳴らし、背後に控えていた若いヒットマンが相手を一撃のもとに撃ち殺した。
 
 映画館をのぞいてみることに決め、マルチェロは立ち上がった。喫茶店の隅では黒服の護衛が顔を上げる。このあと三人ばかり殺す用事があったが、それは後でもよかった。勘定書きの通りにコーヒーの代価を支払って、店を出た。この街ではむろん彼の名は良くも悪しくも高いが、どんな店の主人も「金はいいよ」とは言わない。そう言っただけで殺された男がいたからだ。しかもマルチェロは機嫌が悪くさえなかったのに。
 街の通りはいつもの通りに雑踏だ。アーケードの下をハトが飛ぶ。十字架さながら翼を広げて滑空していく。わずかに上りの商店街は石造り、迷路のように曲がっている。マルチェロは微笑し、上着の釦を留めずに歩いた。
 やがて目に入った映画館の前には、熱心な映画ファンだろう男女が静かな短い行列を作っていた。もうすぐ幕が開く映画はそれなりの名画なのだ、とマルチェロは思う。タイトルは何だったか。コピーは頭に焼きついたが、タイトルはそれほど印象的ではなかったのだ。列の最後尾について考え続ける。頭上には大きなゴシックで書かれていたのだが、見もせずに。
 
 そうして考えるマルチェロは、知らなかった。三人隔てて前に立っている少年の名がククールということを知らなかった。その少年が熱いココアの紙カップで手袋のない手を温めていることを知らなかった。この映画が好きで何日も前から公開を楽しみにしていたことを知らなかった。
 マルチェロは知らなかった。ココアをすする幸せそうな少年がやがて彼の運命として立つことを知らなかった。その額に試しに銃を突きつけてみて、自分がけしてその少年を殺しえないとわかるということを知らなかった。
 ククールは知らなかった。上品な老女たちを三人隔てた背後に暗黒街でも恐れられている男が立っていることを知らなかった。その男がマルチェロという名だということを知らなかった。その男をやがて愛し、愛されるだろうことを知らなかった。
 ククールは知らなかった。何も知らなかった。わけてもそれら全てが楽しみにしていた映画の終わる前にすっかり起きてしまうことを知らなかった。ココアで手を温めながら、開演を待ちながら、そんなことは少しも知らなかったのだ。
 
 
 
『第三の男』:
 
「イタリアでは、ボルジア家30年の圧政下に、ミケランジェロ、ダビンチ、ルネサンスを生んだ。スイス500年の同胞愛と平和が何を生んだ?」
 相手の沈黙を見て、男はニヤリと笑って続けた。
「ハト時計さ」
 
 物語が進むほどにマルチェロは退屈していた。だからかえって、肩を叩いた男を見上げてほっとしたくらいだ。それは背の高い、傲慢そうな顎と頬骨をしている。頑強で肩幅の広い身体は三十代半ばといっても通るだろうが、実際は四十代半ば。右手の殺した人間の数を左手が知らないというタイプの軽薄な酷薄さが消えない煙草の煙のように絶えず周辺を漂っている。
「遅かったな、ベネディクト」
「早すぎる男は嫌いだろう」
 マルチェロは立ち上がった。銀幕に影が映る。ハリー・ライムはまだなにか話しており、その声は薄汚い天井から聞こえているが、その顔の真ん中には切り取ったようにマルチェロの影がある。周辺からの非難がましいしっしという声と視線の中で、ベネディクトがマルチェロの腕を取った。
「銀幕にキスシーンの影でも落としてやるか?」
「それより私の靴でも舐めていろ」
 長身のマルチェロよりなお一回り大きなベネディクトが体をゆすって笑った。マルチェロはそのみぞおちに一つ拳をくれると、出口へ向けて歩き出した。映写機のレンズは真っ向から顔に落ち、ひどく眩しかった。背後で影はなお銀幕に落ちているだろう。それは昔の映画の中の、とっくに過ぎ去った俳優たちの動きとなんら変わりなく。そしてまた現実も、なにひとつ影や夢と変わらないのだ。
 
 並木のプラタナスは冬枯れて、無様なまだらの模様をさらしている。セーヌの河辺は身を切るようなミストラルが焼栗の皮を吹き飛ばしていく。ベネディクトは耳元でずっと最近の死人の数を数えている。移民たちのギャングの名前をうれしそうに。マルチェロは黙って話させ、その半分ばかりは聞いていない。だがやがて路地を曲がったところ、薄汚れたアパルトマンの鍵は開く。
 その寒々とした部屋を、マルチェロはよく知っている。幼い頃にそこで過ごした部屋だ。父親の顔は覚えていない。どこかの貴族か、でなければ資産家だったらしい。母は場末の酒場で父親に拾われ、しばらく裕福な生活を送ったが、父が新たな愛人を作るにあたって捨てられた。あとはお定まりの通りだ。養育費は若い男と酒に消えた。すさんだ生活が病となってとりつき、ぼろぼろになった肝臓が仕上げをして墓穴が彼女を飲み込んだ。残されたマルチェロは無一物で、この部屋からすべてを始めるしかなかった。ベネディクトは隣家の末息子で、悪事と情事の最初の手ほどきから、長じては殺人も強盗も片棒をかついでいる。
 もっともマルチェロに比べれば頭の切れ具合も劣るから、今では小さな組織の一部を預けて、対等な相棒というよりも子飼いのような扱いにしている。それでベネディクトも満足しているが、今でもたまに身体はつなぐ。その理由は簡単だ。身体の相性がいいし、慣れた相手だけに不安もない。刺激もそれほどないが。
 
 ベネディクトはキスを右耳から始める。蛇のように舌をのばして溝をたどり、峰をたどられれば腰の辺りがじんわり熱くなる。服の上から尻の割れ目をたどる指は布地などものともせず、ただただ強く淫靡だ。死んだばかりの死体を動かしたときに、こめかみの銃創から勢いよく血が噴出したような妙な感動を覚える。
「おい、待て。服を脱ぐ」
「そのままでいいさ」
「忘れるな、ベネディクト。私が待てと言ったらおまえは待つんだ」
 押しのける素振りひとつ見せたわけではないが、後ろからとりついていたベネディクトはそれだけで引いた。マルチェロは寝台に歩み寄り、振り返ってベネディクトを見た。上気した頬は赤く、髪は乱れている。
 上着から袖を抜いて、窓近くの黄緑色の椅子に投げる。シャツのボタンに手をかけて、上から一つずつ外していくあいだ、ベネディクトの視線はこちらを見たまま離れなかった。
「おい」
 マルチェロは手を伸ばす。
「カフスを」
 ベネディクトは黙ってオニクスのカフスボタンを外し、サイドテーブルに置いた。
「俺は犬か?」
「しつけの悪い犬だな」
「お手も伏せも聞くぜ」
「犬取りが野犬を殺すように殺してやろうか」
「ワイヤーで首を絞めて?」
「そうだ、無様に四肢を引きつらせろ」
「いいぜ。だが明日にしろ。今夜は忙しい」
「犬の用事か」
「ならおまえは雌犬だ。足を開けよ、マルチェロ。穴も竿も舐めてやる」
「おまえがまだ生きているのは」
 マルチェロはのしかかるベネディクトの首を抱き寄せながら笑う。シャツもズボンも下着も脱ぎ捨てた姿で。
「私がたまたま、おまえを殺そうと思わなかったからだな」
 内股を撫でる手の熱さ。この男と抱き合うときはいつもマルチェロは犬とまぐわう犬の気分になる。四つ這いになり、濡らした指で尻の穴をくじられるのは奇妙な気分だ。そうされながら前を舐められるのはもっと奇妙な気分だ。耳に届くのはぬれたみだらな音ばかりで、身体の奥からはねじれるような劣情がわいてくる。激しく尻を突き上げられ、あられもない喘ぎ声を吐きながら、これは犬の劣情だろうと考えるのは頭の片隅だ。
 
 たとえばこの枕の下の銃を取り出して、ベネディクトの額に押し付けたとして、少しもためらわず私は引き金を引けるだろう。頭に穴をあけた死体の周囲に飛び散った脳漿の色や頭蓋骨の細かな破片や灰色の脳髄を見るだろう。服を着て部屋を立ち去り、ランチには子羊を食べるだろう。マルチェロは笑わない。そんなことはあまりにもあたりまえのことだ。だがふと考えた。つまりこういうことを。もしそう言ったら、あのガキ、ククールという少年は驚くに違いない。
 マルチェロは不思議には思わなかった。こんな場面でその銀の髪の子供を思い出したことを不思議には思わなかった。悪逆の淵にある人間ほど切実に神聖と美を求めるというのはわかりきったことだ。神は言葉遊びの詩人のように、矛盾が好きに違いない。でなければルネサンスのあれほどの美、あれほどの崇高さが、堕落と殺戮の街から生み出されるはずがない。あのころティベルの川のほとりには、毎朝殺された男女が浮いていた。そして平和と愛があれほど貧相なわけがない。あのくだらないハト時計。だからマルチェロは不思議に思わなかった。
 
 
 
『カサブランカ』:
 
 屋根裏部屋は狭くて寒い。マルチェロは黙って部屋の中を見回した。テレピン油と絵の具の匂いがたちこめ、壁という壁には絵が積み重なっている。ククールはストーブに火を灯したり、薬缶に水を汲んだり忙しく立ち働いていたが、そのうちガタガタと床を鳴らして椅子を引っ張り出した。それも絵の具だらけだ。それから言い訳がましく言う。
「大丈夫。乾いてるから、服にはつかないよ」
 マルチェロは黙って座った。ククールはいつものように整った顔をくしゃっとさせて笑うと、燃え始めたストーブの上に黄緑色の薬缶をかける。十一月の午後三時の陽光が街を斜めに照らし、その向こうに大聖堂の角ばった屋根がひときわ明るく輝いているのが窓の外に見えた。
「眺めがいいのが気に入ったんだ。七階まで上るのは疲れるけどさ」
「そうか」
 マルチェロは短く答えて差し伸べられたボウルを受け取った。カフェオレの甘い匂いが立ち上る。ボウルは端が少し欠けていた。
「おまえ、画学生か」
「そうだよ。普段は学校に行ってるか、大聖堂の前で似顔絵描きなんかやって生活費を稼いでる。息抜きに映画を見るけど、わざわざ映画館に行って見るのは古いのばっかりだよ。安いし。あんたも?」
 マルチェロは問いに対する答えにうなずきながら、ククールの顔を見た。まだ温まらない部屋の中で、マフラーも上着も着たまま人なつっこい笑顔をこちらに向けている。二十歳になったばかりだといっていた。
 
 会うのはこの日が二度目だ。最初の出会いは最悪だったといっていい。映画館の狭い通路でククールが抱えていたココアのカップがひっくり返り、マルチェロの白いセーターをどうしようもない色に染めたのだ。おかげで映画鑑賞は半分がたフイになった。だがそのときカップがひっくりかえらなければ、この少年には二度と会うことはなかっただろうし、なによりこの日、この狭い屋根裏部屋に来てはいなかっただろう。
 おかしなものだと考えながら、マルチェロはぼんやりとカフェオレを飲む。向かいの椅子にはククールが座ってなにか話していた。好きな映画だとか、最近見た映画の感想だとか、今の映画と昔の映画の比較だとか。
 マルチェロはときどき頷き、生半可な相槌を打っていた。見え隠れするカンバスに対する評価は、女や男や風景、動物なんかが殺風景な部屋をにぎやかにしていると思ったくらいで、美醜はわからなかった。ただ光を強調する技法が、いつだったか見た印象派の画家の絵を思わせるとぼんやり考える。
「……?」
 問いかけられてマルチェロはふと顔を上げた。何か尋ねられたらしいことはわかったが、内容を聞いていなかった。ククールは少し心象を害したように唇をとがらせ、だがもう一度問いかけを繰り返した。
「マルチェロさんって、何をしてる人なのかと思ってさ」
 素朴な問いかけに、マルチェロは唇の端で笑った。
「あててみろ。ウィかノンで答えてやろう」
「平日の昼間から映画見てるんだから、勤め人じゃないよな」
「ウィ」
「家が資産家の金持ち?」
「ノン」
「休暇で旅行中のイタリア人?」
「ノン」
「株の投資家?」
「ノン」
「失業中の楽団指揮者?」
「ノン、だ」
 答えて、それがあまりに縁遠い職業だったことにマルチェロは笑い出した。ククールもつられたように声をあげて笑う。それからマルチェロをのぞきこんだ。その目が空色をしていることにマルチェロは気づいた。明るい、美しい色だ。そうだ、空はこんな色をしているのだろうとマルチェロは考える。
「ヒントをくれよ。昨日の夜は何をしてた?」
「そんな昔のことは覚えていないな」
「今夜の予定は?」
「そんな先のことは知らんな」
 ククールはその問答に、思い当たったように笑い、片目をつむった。
「ハンフリー・ボガードだ。じゃあ、バーの経営者?」
「近いな。だが違う。さて、私は用事がある。もう行くぞ」
「あ、ゴメン。引きとめたね」
 マルチェロは立ち上がった。ククールの手に空になったボウルを渡す。くったくなく少年は笑い、先に立って戸口を開けた。
「あ、ちょっと待って。肝心なことを忘れてた」
 足音を残してククールは部屋の奥にかけこみ、紙袋を持ってすぐに飛び出してきた。それをマルチェロに押し付ける。
「これ、セーター。渡すの忘れるところだった。染みは落ちたから」
 マルチェロは頷いて紙袋を受け取り、下まで送るというのを断って、長い暗い階段を下り始めた。安い板の延々と続くきしみを経てようやく戸口にたどりつき、表に出ればすでに日差しは翳っている。
 夕食は三番街あたりで取ることにした。歩いていけばちょうど開店時刻に着く。そう考えてふと、マルチェロは気づいた。一緒に居る間、一度も、自分は、あの少年の殺し方を考えなかったと。そして愕然とする。
「……」
 見上げれば、まだ光さす屋根裏部屋の窓が開いて、銀髪の少年がこちらに手を振っている。マルチェロは凝然として、表情さえ定かでない顔を見上げた。
 奇妙なことだった。いつもなら、相手を見ていればごく自然に考える種類のことだというのに。眉間を打ち抜くか、ナイフで心臓を一突きするか、それとも頸を絞めるか。それは手持ち無沙汰の手がいつも決まって撫でる肘掛の彫りもののような、物慣れた思考だ。
 それは普段なら挨拶をした次くらいに思いつくほど自然なことだ。朝起きれば顔を洗うために洗面台に向かうのに何の思考も必要としないほどに自然なことだ。寝台に上る前に靴を脱ぐほど自然なことだ。
 いったい今日、この日に何が起きたのかとマルチェロは自問した。そしてむろん、答えはない。それともあまりにも明らかだ。
 
 
 
『イヴの総て』:
 
 銃口を押し付ける。引き金に指をかける。セーフティは外した、銃弾は弾倉に入っている。殺すなどというのは簡単なことだ、ただひとさし指のわずかな動きでやってくる。マルチェロは考える。長椅子の上に押さえつけられ、蒼白な顔をしてこちらを見上げているのは手下の若いリュパンで、殺されても誰一人騒がないゴロツキの手合いだ。
 おびえた目を見返してやる。探るようにこちらを見る目は、これが冗談にすぎないというサインを探している。それともわずかなためらいを。だが見つけることはできないに違いない。そんなものはないのだから。しばらくそうしていると、銃口が触れる額を汗が伝い落ちた。なるほどそれが冷や汗だ。それから足元からは少しばかり臭いにおいと。
 マルチェロは小さく舌打ちした。長く待たせすぎたのだ。失禁したリュパンの股間から湯気が立ち上っている。腹立たしさのままぎりぎりと眉間に銃口を押し付ければ、震えが伝わってきた。最初は細かく、次第に大きい。間の抜けた笑い声が半開きの口からよだれとともに漏れる。しまいにくるりと黒目が上に回り、白目が剥かれるにいたって、マルチェロは苦笑した。
「――おい、ダナエ」
 銃口を引いて、マルチェロは傍らの男に呼びかけた。禿頭の男は先ほどから塩の柱になったように立ち尽くしていたのだが、ふいに声をかけられて、魔法を解かれたようにはっと顔を上げた。
「はい、ボス」
「シートベルトを締めておけ」
 いささか場違いな冗談に笑おうとしかけたダナエの顔が、銃声とともに凍りついた。マルチェロは撃ち殺された死体を無感動に見下ろした。ぐったりと横たわったリュパンのシャツの胸のあたりには丸い小さな焦げた穴があいており、そこから血が音もなく湧き出していた。
 マルチェロは顎のあたりに散った返り血を袖で乱暴にぬぐうと、体を起こして銃をポケットに押し込んだ。鼻をくすぐるのは硝煙の匂いだ。
「ボス、どこへ?」
 背後からの問いに、マルチェロは答えなかった。ちょうど考えていたところだったからだ。ククールという銀髪の子供もこんなふうに死ぬのかと。だがそれは、どうしても本当だとは思われなかった。
 
 奇妙に心騒がせる二度目の別れのあと、マルチェロはその屋根裏部屋を訪ねようとは思わなかった。だが思いがその上を去ることもなかった。銀行強盗を二度、美術品の強奪を一度、そして人を五人殺すあいだ、マルチェロはただそのことだけを考えていたといってもいい。
 だがどうすることができるだろうか。答えの予想もつかない問いの前に立たされたように、マルチェロは苛立ちを強め、凶暴と残忍とを増した。しかも少しも気は晴れなかった。このままではパリ警視庁が朝ごとに新しい死体を発見するのも遠いことではないとダナエが危ぶんだのも間違いではない。
 
 大聖堂前の古い通りは、絵描きの卵のたまり場だ。イーゼルの裏側に、見本代わりにデフォルメや美化を加えた古い絵を並べて客を待っている。年齢も人種も男女も関わりなく。芸術の都パリならではの光景といえた。
 だがさすがに冬場は減る。重苦しい曇天の下、指なし手袋にひざ掛けと重装備で座っているのはわずかに数人だった。マルチェロはサングラスの下からちらりと周囲を見渡し、上着の胸ポケットからゴロワーズの青い紙箱を取り出して、細い両切りを唇にくわえた。
 ゴロワーズが好きなわけではない。どちらかというと、マルチェロに好みさえない。よく、彼の最初のボス、ニノが笑って言ったものだ。おまえは酒も煙草も女も一級品を苦もなく見分けるくせに、それがたいして好きというわけじゃない。本当のところは何でもいいんだ。妙な男だよ、本当に。実際のところ、煙草の火をつけたのは鼻につく硝煙の気配を追いやるためだ。
 
 煙は細くたなびいていく。マルチェロは通りがかる観光客や買い物帰りの老婆、信仰狂いらしい老人の殺し方を考えて暇をつぶした。二十人ばかり頭の中で殺してみただろうか。想像の中で、細っ首の少女を石畳の上にたたきつけたあたりでマルチェロはふと気づいた。気づかぬうちに正面にひとつイーゼルが立って、ニットの帽子をかぶった少年が木炭を動かしていた。
 それが誰だかたやすく知れた。マルチェロは色ガラスの下でわずかに視線だけをそちらに向ける。少年はこちらを見ているのに違いなかった。その木炭の筆が書いているのは己に違いなかった。マルチェロはふいに、自分の心が、乾いたスポンジに水を含んでゆくように、奇妙な仕方である種の飢えを急速に満たしているのではないかという思いに駆られた。  だが同じほど奇妙な憶病さによってその場を動こうとは思わなかった。ただ少年がちらちらとこちらを見て、一心に手を動かしていることに満ち足りていた。信じがたいことに、それによってある種の幸福を感じていたといってもよかった。およそ幸福などというものには無縁なはずだったが。
 
 どれだけのあいだ、そうしていたのか。マルチェロは知らない。ただ願ったとおりの永遠でなかったことだけは確かだ。足音が近づいてきて、マルチェロは顔を上げた。少し低いところに銀髪が揺れて、青い目がこちらを見上げている。マルチェロは言葉を見出さなかった。
「こんちは」
 マルチェロはサングラスを外した。少年の微笑がふいに近い。
「また、会えてうれしいよ、マルチェロさん」
 マルチェロは何も言わない。むきだしになった顔を北風が吹いていく。ククールの手がのびて、冷たい頬に触れた。
「俺、あんたが好きみたいなんだ」
 マルチェロは何も言わなかった。ただ考えていた、どうしてその言葉がそれほど胸を深くえぐるのかと。マルチェロは何も言わなかった。ククールが腕を開いて思いがけないほど強く彼を抱きしめても、頬が頬に触れても、冷えた髪の毛が唇に触れても、マルチェロは何も言わなかった。ただ考えていた、自分はけっしてこの少年を殺すことができないだろうと。
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“Fasten your seatbelts, it's going to be a bumpy night!”
「シートベルトを締めとくのね。今夜は荒れるわよ!」
      マーゴ・チャニング(ベティ・ディヴィス)『イヴの総て』
 
 
 
『アパートの鍵貸します』:
 
 パリから200キロ、サン・ペール村の近郊を、草色のトゥインゴが走っていた。運転しているのはククールで、ひどく揺れるのは、その運転技術のせいなのか、二十年もののオンボロな車体のせいなのか、それとも生垣に沿って走る田舎道の砂利のせいなのか、助手席のマルチェロは見当がつかなかった。そのどれでも同じだったと言ってもいい。
 空はそろそろ暮れ色になずんでいる。パリの町を出てきたのは早朝だからこの遅滞の原因には、ククールの方向音痴とともにマルチェロ自身の地図読み取り能力の欠如も入っている。だがマルチェロがおよそ文句の一つももらさなかったのは別の理由による。
「なあ、マルチェロさん、大丈夫?」
 愛嬌だけはたっぷりあるが持久能力そのほかには疑問の余地のあるトゥインゴを乱暴に止めて、ククールは気遣わしげに声をかけた。マルチェロはというと、力なく、さっさと行けとばかりに手を振ったきりだ。乗り物酔いはきわまって、もう吐くものもない。車を止めて小休止を取ったとて、どうせまたさんざん揺すられる道中が再開するのだから、同じことだった。
「ん。もうすぐ着くよ」
 ククールはこの日、32回目のセリフとともにガタピシと車を発進させ、マルチェロはシートに沈みこんで蒼白な顔の上にボルサリーノをのせた。
 
 この日の朝、マルチェロが遠出のむねを告げたとき、ダナエは怪訝な顔をした。一つには余暇やバカンスという概念があまりにもマルチェロと縁遠かったためであり、もう一つにはこのある種狂気を帯びたボスとともに長い時間をいて耐え切れる相手の心当たりがなかったためだ。だが問いをさしはさんだり、拒絶を唱えることはダナエの習慣にもマルチェロの習慣にもないことだったから、それより多く言葉は費やされなかった。
 そしてトゥインゴはパリの町を出た。言い出したのはもちろんククールだ。誘い文句はきわめて簡単だった。曰く、「マルチェロさんに見せたい場所があるんだ」。大聖堂近くの喫茶店で言われた言葉にマルチェロはさして考えず許可を与え、その後に距離と交通手段とを聞かされて眉をしかめた。
 
 ボルサリーノの影でマルチェロは眉を寄せてひたすら耐えている。思案はすべて頭から追い出されて、脳みそはあまりにひどく揺すられるのでどちらかに寄ってしまったようだ。そうした空白は珍しいものだったが、マルチェロは気づかなかった。ただ時々、聞こえてくるククールの鼻歌や低いハミング、トゥインゴの車体にはねる砂利の音を聞いていた。
 ガタン、と大きく揺れて車が止まった。扉が開く音があり、風が吹き込んでくる。マルチェロは胃液じみたすっぱい唾液を飲み込み、帽子を少しずらした。運転席に運転手の姿はない。
「…どうした?」
 低い囁きにも答えはない。仕方がなくのろのろと体を起こして、フロントガラスから外をうかがうと、少年は銀髪を翻して車の前方に立っている。大仰にためいきをついて、マルチェロは車を降りた。足の下にでこぼこした道を踏んでも、三半規官はおよそ狂ったままで、体も頭も揺れているようだ。
「ククール?」
 呼びかけられて振り返った少年の顔に夕日は明るく輝いている。子供と大人の半ばにあるようなその顔が笑って、指が遥か前方を指した。その仕草に誘われて視線を向ける。その彼方には小高い丘があって、頂きには十字架を頂いた塔がある。教会だ。中世の様式と見えた。
「マルチェロさんを、ここに連れて来たかったんだよ」
 ククールが笑う。
「私を?」
 マルチェロはほとんど聞き取れないほどの低い声で囁き、夕日の中で輝く十字架の塔に再び見入った。教会はおそらく翼を広げた白鳥のような形をしているのに違いなかった。内陣には高い窓がしつられられ、柱頭と破風には無骨だが篤実な彫刻があるのだろう。およそマルチェロは無縁のものであるそうしたものを、だがこのとき、退けようとは思わなかった。
 そうだ、退けようとは思わなかった。するりと絡んできたククールの腕を退けようと思わなかったように。その明るい笑顔を、頬に触れた暖かい口付けを退けようとは思わなかったように。
「よかろう、ただし」
 マルチェロは言った。逆接の接続詞に、ククールが不安なように眉を寄せた。マルチェロは微笑する。およそ、自分でも思わぬほど穏やかに。おそらくかつて笑ったことがないほど穏やかに。
「ここからは歩いていく。いいな?」
「もちろんさ」
 ククールは答えて、明るい笑い声を上げた。そして急いで駆けていって、トゥインゴからキイを引き抜き、錠をかける。また駆けてもどってきて腕を絡めてきたククールの格好がいささか頼りないのに気づいて、マルチェロは尋ねた。
「風邪を引かないのか、そんな薄い上着で」
「二十代初めのパリジャンが風邪を引く確率は、ニューヨーカーよりも低いさ。でも心配してくれんなら、このまま歩いてっていいって言ってよ」
 マルチェロは何も言わなかったが、腕を振り解こうとはしないままに歩き出した。遠い教会は黄金でできているように光り輝いている。すべての暗い物思いは忘れられたように思われた。だが影は背後に長い。
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"You know that the average New Yorker between the ages of twenty and fifty has two and a half colds a year."
「20代から50代のニューヨーカーが風邪をひく確率は、
 一年間に2回半だそうだ。」
C・C・バクスター(ジャック・レモン)『アパートの鍵貸します』
 
 
 
『オール・ザ・キングスメン』:
 
 鐘楼が十字架の形した聖堂の奥にあって、手前には、尖塔がひときわ高くそびえている。北側の辺には半円形の飾り板が戸口の上にあって、そこには両手を広げ、光背を備えたキリストが彫られていた。その右側には姿勢を正した使徒や聖人たちが、左側には追われていく罪びとたちの姿が、ロマネスクの単純だが力強い線刻で描き出されている。さらにその上には、細長い窓を隔てて円柱のように預言者たちが立っていた。その表情は定めがたく。
 マルチェロは、黙ってそれらを見上げた。頭上の空は金色を通り越して、もう宵の気配を帯びた暗い赤色だ。左側には腕を絡めてククールが立っている。丘の上の古い教会はひんやりとした静寂に包まれて、ただ一度だけねぐらに帰る野鳥の群れが、頭上を渡っていった。そのまま階段を上がろうとしたマルチェロの腕をククールが引っ張った。
「帽子取るの、忘れてるぜ」
 少しばかりとがめるような口調で言われた言葉に、マルチェロは一瞬、まじまじとククールの顔を見た。教会では帽子を取るという信仰深いものたちのルールにこの少年が従うことを意外に思ったからではない。そうしたルールがあったということを知っていた己にむしろ驚いたのだ。そして黙ってククールがボルサリーノを取るのに任せた。
 
 天井の高い空間は薄暗く、しんとしている。薄い灰色の石の円柱にかかるアーチは凍りついた聖歌のようだ。並んだ長椅子と柱の向こう、奥の突き当たりには壇があり、その傍らには幾つものキャンドルが捧げられているらしく、ほのかに明るんでいる。ククールは胸の前で十字を切った。
「見せたいものがあるんだ、真っ直ぐに行って」
 ククールの囁きにうなずいて、マルチェロは中央通路を歩き続けた。見上げた天井は薄闇に沈んで、立ち並ぶ円柱は化石した森を思わせた。
 かすかにマルチェロは身震いする。聖所に足を踏み入れたことがないわけではない、長らく訪れていなかったわけでも。観光客で溢れかえるノートルダム・ド・パリは非公然の密談にぴったりの場所だし、群小の教会は取引や待ち合わせまで深夜の時間をつぶすのにちょうどよかった。
 だがそうした場合はいつでも帽子を脱ぎなどしなかったし、連れは十字など切りはしなかった。犬小屋に入る犬のように、穴にもぐる熊のように、ただ扉を開けて足を運ぶだけだった。どこぞの娼館に入るのと変わらず。
 マルチェロは奇妙な居心地の悪さと息苦しさを感じていた。平たくいえば教会にいるような気分になっていたのだ。だがククールは前に進むのをやめようとしなかったから、マルチェロもまた足を運び続けるほかなかった。
 
 そうしながら、ふと思い出したのは最初に殺した男のことだ。ロザリオを肌身離さない男だった。暗黒街の住人にしてみれば珍しいことだった。
 その男の名前をマルチェロは覚えている、ルイと言った。そのころ下町あたりに縄張りを広げつつあった両刀使いの若い男だった。ベネディクトはまだ十二歳のマルチェロに殺しをさせることに賛成はしていなかったようだが、ボスのニノに表立って反対できもしなかった。
「いいか、マルチェロ。何かを成し遂げるには犠牲も必要だ」
 ニノは言った。
「お前は寝そべって足を開け。尻にやつの一物をくわえ込んでやればいい。それでせいぜい楽しませてやれ。しまいにやつが気をやったら、おまえは枕の下から銃を取り出して、ありったけの弾丸を景気よくぶっぱなせ」
 それから太った顔の中で目を細めて付け加えた。
「もし心配なら、目を閉じて想像してみろ。目の前に見えるくらいまで、今言ったことを考えるんだ。うまくいくと思うまで繰り返してな」
 そしてマルチェロはそうした。目の前にはじけた内臓が見えるように思えるほど繰り返して手順を頭に叩き込んだのだ。そして殺しは容易だった。マルチェロはシャワーを浴び、感慨もなく死体を一瞥して部屋を出た。そのときサイドテーブルの上に紫檀のロザリオが転がっていたのを覚えている。
 
 サン・ペールの教会でククールが足を止め、マルチェロを見た。
「ここだよ」
 白亜の大理石の円柱が半円形に囲む正面の祭壇を回り込んだ角、低い壇の上に置かれているのは一体の木像だ。それは赤い灯火を捧げられ、すべてが石造りの教会の中で不思議な温かみを帯び、生きているような様子でたたずんでいた。
「最初に会ったときから、似てると思ったんだ」
 陶然と囁かれた言葉にも、マルチェロは黙っていた。木像は貧しい衣装を着た聖母マリアで、目は閉じて顔は悲しげに伏せられている。これまで見たことのあるどんな聖母の像にも似ていない種類の、世界に隔絶し、愛するものを失った厳しい悲しさが漂っていた。マルチェロはぼんやりと、ククールが大聖堂の前でスケッチした自身の素描とこの像は似ていると思う。だがこうも思った。これは私とは似ていない。そして少しばかり苦痛を覚えた。これは何の予感だとマルチェロは問う。だが考えを進めるより先に。
「なあ……」
 マルチェロはククールを見た。暗さは暗く、少年の顔はわずかな灯火に照らされて陰影が深い。だがその青い目の明るさばかりは変わっていない。
「ここが教会じゃなかったら、キスしてる」
 マルチェロは何も言わなかった。たった今、言われた言葉とは裏腹に、ぐいと肩をひかれ、暖かい唇が唇に重なってきたからだ。マルチェロは目を見開き、ついで驚きが薄れるとかすかに笑った。聖母の視線をさえぎるように、ククールがボルサリーノを掲げたので。それから目を閉じた。そうしているあいだにも、苦痛は静かに、取り返しのつかない形で胸のうちに広がってゆくようだった。
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“You can't make a omlet without cracking eggs.”
「何かを成し遂げるには犠牲も必要だ。」
ジャック(ジョン・アイルランド)『オール・ザ・キングスメン』
 
 
 
『オペラハット』:
 
 教会の長椅子は冷たく、固い。マルチェロとククールは寄り添って座り、身じろぎもしない。捧げられた灯火は揺れもせず、飾り気のない簡素な窓はゆっくりと闇に沈んだ。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。マルチェロは一度も目を開けなかった。左側に重なる温もり以外、なにひとつ感じたくはなかったからだ。左側の、そして重ねた手の。
 子供のするような触れ合うだけのキスをして、それきり何も言葉を交わさなかった。ただそうして座っていただけだ。そのあいだマルチェロは考えていた。パリの大聖堂の前で考えたのと同じことだ。こうしているあいだに、永遠が過ぎればいい。人生の全ての時間が使い果たされてしまえばいいと。
 だがその願いばかり、叶ったことがない。重いくぐもった靴音がとおく、やがて近づき、すぐ先の壁の気づかなかった扉が開いた。馬蹄形の扉の向こうからは明るさが長く伸び、細長い身廊を横切った。傍らではかすかに身じろぎしてククールが顔を上げ、いっそう身を寄せてくる。
 灯りとともに歩み出てきたのは太った小柄な男だ。胸には大きな十字架を下げている。マルチェロはふと眉を寄せる。
「誰か、おるのかね?」
 高く掲げられた古いランプの灯りに、マルチェロは黙って立ち上がった。そこにいるのが誰かわかったからだ。
「ムシュー…?」
 けげんなような視線が、中途でこわばった。それなら相手もそれと知ったのだ。マルチェロは相手をじっと見た。それが誰だか良く知っていた。およそこんな場所で会うにはもっとも似つかわしくない男だ。
 
 暗黒街の顔役の一人だったニノがパリから姿を消したのは、5年前の夏のことだ。死体は上がらず殺したというものもなく、また組織の金庫番が神に誓って言ったところでは、法外な金が一緒に消えたわけでもない。
 それなら、殺されたにしろ、自らの意思で立ち去ったにしろ、誰一人その行方を尋ねるものもあるはずがなかった。なにせ、そこに生じた利権の空白を争奪するのに、残された誰もが忙しかったからだ。
 そして多少のごたごたの後で、半年とたたないうちにマルチェロが組織を乗っ取り圧制と秩序を敷くと、それですべての者がニノを忘れた。暗黒街の情愛などその程度のものだ。ただもしニノのことを覚えているものがあるとすれば、それはベネディクトで、彼はたまにマルチェロに向かって感心したように言った。
「あのデブ親父はどっかで生きてるさ。マルチェロ、あいつはいい時に身を引いたよ。時宜を心得てた。あんなふうに誰もができるもんじゃない」
 マルチェロはというと、その件に関しては興味も関心もなかった。チンピラがほかのチンピラと時に見分けがたいほどに似通っているように、顔役という種族もどれも似ているという程度にしか思っていなかったからだ。
 
 そう考えていたのだ、少なくともこの瞬間までは。僧服に身を包み、古びたランプを提げたニノを前にして、マルチェロは黙って立ち尽くした。
「マルチェロさんの、知り合い?」
 恐る恐るというように尋ねてきたククールに、マルチェロは浅く頷いた。するとニノも肩を落とし、灯りを下げて微笑する。それは記憶にあるよりも穏やかで、人間味を帯びている。その事実に奇妙な感慨を覚えて、マルチェロはククールを促して通路に出ると、ニノの方に歩み寄った。
「久しぶりじゃのう、マルチェロ。元気そうでなによりじゃ」
「あんたは少し、痩せたようだ。……ペール、また会うとは思わなかった」
「おまえにそう呼ばれるとはな」
 ニノが笑った。マルチェロは黙ってその顔を見た。五年の歳月はニノの上から少しばかり肉を減らし、かえって若返らせたようだ。かつては消えたことのない目の下の隈もうすれ、酷薄そうな笑みも唇の上からない。
「せっかくじゃ、司教館に寄ってゆけ。少し、話をしておいた方がいいかもしれんしのう。ああ、そっちは誰じゃ?」
 問われて、マルチェロはククールを見た。思案の間をおいて低く言う。
「……知り合いだ」
 左手からするりと逃げていく腕の感触にも、マルチェロは黙っていた。なにか問いたげにニノの視線が向けられても黙っていた。チューバがあったら吹いていただろう。大切なことが起きるときは、いつだって十分な思案と言葉が間に合ったことはないのだ。それが運命だとでもいうように。だからマルチェロは黙っていた。
「こっちじゃ」
 促されるままにマルチェロは歩き出した。左脇の下のホルスターの重さがふいに感じられ、そうしたものを持っていたということを思い出させた。
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“So you see, everybody does silly things to help them think. Well, I play the tuba.”
「皆、考え込んだら奇妙な行動をしますが、私の場合はチューバを吹くのです。」
ロングフェロー・ディーズ(ゲーリー・クーパー)『オペラハット』
 
ペールはフランス語で父親の意味。転じて、神父さん
 
 
 
『荒馬と女』:
 
 真夜中の司教館はひっそりと静かだ。その静寂は重厚な、緞帳めいたカーテンからくるものなのか、それとも毛足の長い花模様の絨毯や、白いレースめいたカバーをかけたソファからくるものなのか。
 手早く用意された茶を飲むあいだ、いつになく無表情で黙りこくっていたククールは、先ほどニノが気を回して用意した客室に向かった。だからマルチェロは黙ってニノと差し向かいに二人きり、清潔で心地よくしつらえられた居間のテーブルに向かって座っていた。
 信徒から贈られたものなのか、大きな楕円形のテーブルの上にはあふれるほどに薔薇を生けた花瓶が置かれている。暖炉には火が燃えて、正面に張られたガラス越しに心地よい熱が放たれている。住人が寝起きし、生まれ、育ち、老いてゆく、その呼吸が根を張る生きた家の気配だ。
「ここに住んでいるのか、ペール」
「主は別におる。偉い司教さまが。わしは寺男のようなものだな」
「あんたが?」
 ニノが少し笑った。見たこともない笑いだとマルチェロは思う。五年前、この男はもっと冷たく笑った。その手には幾つも宝石をちりばめた悪趣味な指輪をはめて、これみよがしの贅沢と美食を好んでいた。人を人とも思わないのは暗黒街のルールだが、その中でもニノの貪欲は群を抜いていた。
 それがこんなふうに笑っている。マルチェロは苦いような、奇妙なような思いを胸に重たく感じて磁器の茶碗を取った。
「街のことは聞かないのか。それとも知っているのか」
 ニノは首を振る。どちらともつかない返答だ。マルチェロはいささか苛立ち、だがホルスターの銃は血に飢えて叫びはしなかった。そうするにはここはあまりに勝手が違いすぎるのだろうか。
「なぜ街を離れた」
「ふむ」
 ニノは深く息をついて、マルチェロを見た。手の中には古いカップ。ひびが入っているのはそれが客用ではないからだろう。
「返答次第では、街の連中にわしのことを黙っておいてくれるかな?」
「ああ」
 そしてニノは話し始めた。穏やかに、だが本当に大切なことを語る声だけが帯びる、質問を許さない、ある種の閉じた様子で。
 
 サン・ペールに近く、やはり小さな村がある。リヨンから続く街道沿いのミオネー。そこにはこぢんまりとしたレストランがあって、知る人ぞ知る高名なシェフの店だ。『アラン・シャペル』、ミシュランの三ツ星に輝く店をニノが訪ねたのは五年と少し前のこと。
 見事なフルコースの昼食を終えたあと、高名なシェフとの短い会話の中でサン・ペールの教会の話を聞いた。午後に訪れるなら、きっと素晴らしい夕日が見られるでしょうという言葉に従って、たった二人の護衛とともに訪れた教会で、一人の老人に会った。普段は見知らぬ相手と話などしないニノだが、その老人の不思議に威厳ありげな様子に思わず話し込んだ。
 もとより身元など明かしはしなかった。老人もまた聞かなかった。だが日が暮れてゆくその風景の中で、不思議な思いにとらわれた。この教会は何百年も前から祈る人々を迎え入れ、送り出してきた。そのほとんどはもう死んでしまった。この教会はこれからもまだ何百年も立ち続け、多くの祈りが堂宇に満ちることだろう。だがまだそのほとんどが生まれていないだろう。
 あたりまえのことだった。だがそれは奇妙にニノの心を打った。老人は、ふいに黙ったニノの肩に手を置いた。
「いつかまたこの家に来なさい。いつか、遅くならないうちに」
 そのときニノは思い出した。もう遠い、遠い昔のことだ。小石ばかりの島の中腹、漆喰を塗っただけの貧しい家で、差し込む夕日に明るく髪を燃やした若い女が立っている。女は手をあわせ、一心に祈っている。ニノは小さな子供で、そのスカートの端をつかんで母親の横顔を見ていた。耳に蘇った低い祈りの言葉は、町に出稼ぎに行くために置いていく初児の無事な成長を、それだけを深く激しく願うもの。
 帰還の長い道のりの中で、ニノはたびたび背後を振り返った。そこには大きな星がかかっていて、道しるべのように光っていた。
 
 ニノはふと話をやめた。夜半の静寂は静かに落ちて、遠くのほうで雨が降っていることにマルチェロは気づいた。
「それだけか」
「そうじゃな。その日はわしは街に戻ったが、半月のうちに身の回りを整理して、またここに来た。老人は…司教さまはわしを迎えてくださった」
 ふ、と、重たい嘆息がニノの胸から漏れた。それは独り言だったのか。マルチェロは黙って冷えた椀を置いた。
「今の話ではわからない。理由にはなっていない」
「だが、それが起きたことの全てじゃよ」
「あんたは街で、王様のように君臨していた。あんたもそれに満足していたはずだ。それが、母親のことを思い出した、それだけで? わからんな」
「わかるまいな」
 ニノの言葉に、マルチェロは眉を寄せて顔を上げた。
「あんたは人殺しだ」
 ニノの顔の上にさっと暗い影が走った。それはかつて顔役だったニノが最も不機嫌になった瞬間の表情の変化だ。そのあとは決まって陰鬱に笑い、上唇を舐めて、「生まれてきたことさえ後悔させてやろう」と言い放った、その粘っこい声音さえマルチェロはありありと思い出した。
 だがニノはこのとき、笑いはしなかった。
「わしは人殺しだ」
 低く呟くそのうめきは、突き刺されたようだ。だが以前、マルチェロがこの太った男と話していたときに感じたような、狂った豚を相手にしているような不気味な気色の悪さはなかった。何度となく思案の中で殺したはずだが、その殺し方も思い出せなかった。
「わしは人殺しだ。わしは遅すぎたのかもしれん」
 鼻のあたりを拭い、ニノは立ち上がった。
「話はここまでとしよう、もう遅い。連れと一緒に上で寝てもいいし、起こして帰ってもいい。村はずれにはモテルもある。好きにするがいい」
 マルチェロは黙って立ち上がった。この石造りの古い建物の中で眠る気にはならなかった。安っぽいモテルのプレハブの方がまだ休まるだろう。
「さよならだ、ペール」
「さよならか」
 ニノが笑った。アデュー。再びはない別れの挨拶。オゥ・ルボアール、再会を約するのではなく。永遠の空白の約束。
「さよならだ。私はここで誰にも会わなかった。そうだろう?」
「感謝する、マルチェロ。だがわしはそうは言わずにおくぞ。何が起きるかわからんのが人生だからな。また会おう」
 マルチェロはボルサリーノを頭にのせて、そのひさしの陰で微笑した。この場合に限り、ニノが正しいのではないかという気がしたからだ。
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“Just head for that big star straight on. The highway's under it. It'll take us right home.”
「あの大きな星の下に家に続く道がある。」
ゲイ・ラングランド(クラーク・ゲイブル)『荒馬と女』
 
 
 
『成功の甘き香り』:
 
 教会の暗い塔を後に、細い雨の中をトゥインゴは進んでいく。運転席のククールも、助手席のマルチェロも何も言わない。ヘッドライトは茫漠と広がる闇の中に小さく光を灯している。木立を抜けて少し走ると、前方にモテルの看板が見えた。
「そこだ」
 マルチェロの言葉にククールは返事をせず、ただハンドルを切って車を駐車場に乗り入れた。他に止まっている車は一台もない。水曜の夜だ。マルチェロはトゥインゴを降りて、古びた文字でINNと書かれた窓を叩いた。窓の中には狭い部屋があって、深夜番組を映すテレビがついている。しばらく待っても返答はなく、マルチェロは今度はもう少し強く窓を叩いた。
 テレビの前の長いすから誰か起き上がる気配があって、やがて間の抜けた顔の男が寝起きの顔をして近づいてきた。のろのろと窓を開ける。
「部屋を」
 短く告げると、返事もせずに料金表を示された。シングル二つ分の料金を財布から引き出したところで腕を捕まれた。つかんだのはいつの間にか近づいていた銀髪の少年だ。とうに気づいていたことだが、思いつめた色の目をしている。目だけで問うと、目だけで二人部屋の部屋の料金欄を示された。
 マルチェロは何も言わず、必要な料金を鉛の皿に置いた。男はいきさつに気づいているのかいないのか、札をわしづかみにすると反応もなく数字のついた安っぽい札に下がった鍵を差し出した。受け取ったのはマルチェロだ。
 
 鍵を開けると、あたためていない部屋の底冷えた空気が肌に触れた。一歩踏み込むか踏み込まないかのうちにマルチェロは唐突に肩のあたりをつかまれて、壁に押し付けられた。
「……ククール?」
 顔を伏せたまま自分を拘束する少年に向かって、マルチェロは低く問いかける。灯りをつけない部屋は暗く、窓の外から漏れ入る照明の弱い光がわずかに青白い。雨の湿りは上着から、マルチェロの頬から、ククールの銀髪から匂い立った。
「好きなんだ」
 声は泣いているようだ。マルチェロは何も言わない。間近の顔は持ち上げられて、ゆがんだ顔がぼんやり見える。泣いているのだ。外の明かりにおぼろに光って見えた頬の上の涙の跡に、言うべき言葉をマルチェロは忘れた。あの教会で、ニノの前で言った不用意な一言だけで、この少年はそこまで傷ついたのだ。高潮のように胸に満ちてきたのは奇妙な罪悪感と、同時にそれ以上の高揚感と。
「何度も言ったろ。でも、あんた、何も言ってくれない」  そうだ、何も言わなかった。だが何を言えるだろう。せめて手を伸ばして、濡れた頬を拭ってやろうと思う。だがその瞬間には、ククールの腕の中に囚われていた。押し殺した嗚咽は肩のあたりで聞こえる。
「ククール、聞け」
 きつく抱きついてくる体に腕を回した。震えている。震えているのはそれとも自分なのかと、激しいめまいの中でマルチェロは自問する。この小旅行では何もかも思うようにいかない。冷静さも狡猾さも、別の服のポケットに忘れてきたとみえた。出かけるときに気づくべきだったのだ。だがもう遅い。 「聞いて、くれ」
 息が乱れているのは私、震えているのも私だ、とマルチェロは知る。頷く気配はやはり肩のあたりにあって、喉には湿った長い髪がまといつく。だから震えるのはそのせいだ。
「女を抱いたことはある。男を抱いたことも、抱かれたことも、ある。女の扱い方なら知っている。男の扱い方なら知っている」
 間近の顔が苦しげに歪んでいく。当惑と、苦痛に満ちて。今すぐ逃げ出してくれればいいとマルチェロは思う。だがそうはならず、だから続けねばならず。
「だが、愛したことはなかった。教えてくれ」
 手を伸ばす。ああどうか逃げてしまってはくれないかとマルチェロは願う。そうならないことを切に祈りながら。語らねばならない思いに胸は急き、だが語ることですべてを失うのではないかと恐れながら。
「教えてくれ。どうすればいい。どう語り、どう触れればいい」
 ぎこちなく顔を近づけ、口付けする。触れるだけだ。震えながら、触れるだけだ。それだけですべてを壊してしまいそうな感覚におびえながら。何に対しても怯えたことはなかったのに。恐れたこともなかったのに。死も死にすらすぎなかったのに。そう不敵に笑ってなんら省みることなどなかったのに。
「愛している。どうすればいい。どうすれば…」
 言葉はそこで途切れた。熱い唇が重なってきたからだ。怯える唇を押しふさぎ、更に熱い舌が忍び入る。逃げることも応えることもままならず、マルチェロは目を閉じた。
 
 ボルサリーノを古びた帽子掛けに置く。その手がまだ震えているのに気づいて、マルチェロは目を伏せた。少年のキスはあまりに一途すぎる。それが次の段階に移行する術を知らずにぎこちない終りを迎えただけに、なおさらだ。灯りを点した部屋は安っぽく、並んだ二つの寝台には粗い目のシーツをかぶされた毛布があるきりだ。
「マルチェロさん」
 呼びかけられて振り返ると、ククールは寝台の上で枕を抱えてあぐらをかいている。手足をもてあますようなその姿勢はまるで子供のようだ。
「なんだ」
 返答はない。おかしなやつだと思いながら、上着のボタンを外していると、背後に笑う気配があった。小さく肩をすくめて、少年の横に座り込む。
「なんだ」
 同じ目線にあわされて、またククールが笑う。無言で求められるまま左手を伸ばして与えると、頬が寄せられた。甘えるような、甘やかすような仕草で。指先が柔らかい喉に触れる。その瞬間、ふいに、マルチェロはびくりと身をすくませた。一瞬のうちに脳裏を占めた想念は暗く、氷のように冷たい。そうだ、そのとき左手はいつも相手の喉を押さえていた。ナイフを握って頚動脈を掻き切るのは右手の仕事だからだ。そうだ、そうして幾人殺したことだろう。すべての記憶は瞬時に立ち上がる。この手は穢れている。
「マルチェロさん?」
 マルチェロは答えず、危険なものを扱うように、ゆっくりと慎重に左手を引き戻した。握った手はひどく冷たい。刃物のようだ。その思いに耐えられず、素早く立ち上がる。
「どうかし…」
「どうもしない。もう寝ることだ」
 マルチェロは灯りを消して、窓辺に立った。窓の外は暗く、雨は細く降り続いた。やがて東の空が白み、陰鬱な夜明けが古びたトゥインゴを照らし出すまで、マルチェロはそこに立っていた。その両手をだらりと垂らして。身じろぎもせず。
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"Maybe I left my sense of humor in my other suit."
「どうやらユーモアのセンスを別の服に忘れてきたようだ。」
シドニー・ファルコ(トニー・カーティス)『成功の甘き香り』
 
 
 
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