Go alone, but with GOD....

  見よ、天は力ある方の怒りに震えている。
  雲は引き裂かれ、空は血のごとき赤に染まった。
 
 街道沿いの樫の並木は葉をすっかり落としている。ひび割れた暗い樹皮とごつごつと節くれ立った枝を揃って天に向けて伸ばした姿は、地の底で足掻く悪魔的ななにかが天に向けて掴みかかろうと伸ばす手に見えなくもない。そうした暗い想像力に翼を与えるのは血色に変じた空だ。今が夕暮れなのかそれともまだ昼間なのか、マルチェロにはもはやわからない。それは彼があまりにも長いあいだ歩き続けてきたせいでもあるし、その間ずっと小止みなく流れ続けた血のせいでもある。
 このような傷は痛みではない、と、マルチェロは考える。苦痛と恥辱はこの心にこそある。暗黒神を利用していたつもりが利用されていたのは己であった。世界を支配するという我が望みに従っているつもりが操られていた。己の屈辱的な境遇を知らなかっただけ、奴隷よりひどい。犯した罪の一つさえ我が物とは言えぬとは。
 怒りは熾き火のようにマルチェロの胸中に燻る。だがその熱に己を委ねはしなかった。怒りがいかにたやすく躓きとなることか、今はもうよくわかっていたからだ。あの下劣な神とやらに騙されたのは、つまりは己が後生大事に抱えていた怒りのためであった。  マルチェロは歩き続ける。右腕の付け根の深い傷はどうして心臓に打ち込まれなかったのかとさえ悔やまれる。生きてこのような屈辱を噛み締めねばならぬとは、死ぬより悪い。呪いの言葉を吐くにも苦すぎる。
 
  山々は大地より毟り取られ、海は渇きに乾いた。
  太陽と月は天よりもつれ落ち、その光は消された。
 
 罪すらよすがにならぬ。死はどうやら来ぬらしい。では生きねばならぬ。そこまで考えてマルチェロは思考を止めた。並木の間から襤褸を纏った老人の腕が伸び、衣の裾を引いたからだ。無言のまま振り払おうとして、その力もないことに気づいた。おそらくは崩れの病か老いか貧しさによって人の世を追われたものであろう。骸骨のように痩せ削げた顔は男か女かさえ判然とせぬ。枯れ木のようにやせ衰えた指はマルチェロの青衣にとりつくようすがっている。ぎょろりと剥かれた黄ばんだ目を黙って見返した。
「お、お慈悲を、……どうかお慈悲を」
 老人は泣くようにして歯のない口から嘆願する。マルチェロは胸元から最後に残った金の首飾りを千切り取り、差し出した。遠い昔に母が残した最後のものであったが、今更何を持って行くつもりもなかったからだ。だが老人は首を振り、すぼめた口で囁いた。
「この、この恐ろしいそ、空の色…」
 マルチェロは眉を寄せた。
「世界は、せ、世界は滅びるのでございますか」
 聞き取りにくい言葉を聞き取り、マルチェロはしばし黙した。暗黒の計り知れぬ邪悪と力と滅亡への意志を知った。永く信仰を集めてきた女神像が根底から覆されるのを見た。暗がりから現れた巨大な岩塊の城を見た。奈落の底に落ちていった人々の恐怖の声と苦悶の顔を知った。そうだ、それらをマルチェロ以上につぶさに見知ったものはいないだろう。だが同時に。
「――滅びぬ」
 長い沈黙の後で、マルチェロは苦渋に満ちて呻いた。邪悪を見た。その恐るべき威容を知った。だがあの四人をも見たのだ。慈悲と哀れみと正義を持ち、更に強さを持つ四人を見たのだ。怒りと邪悪のただ中にいたとはいえ、彼らの澄んだ眼差しとその上に宿る神の祝福の輝きを見誤るまでにこの目が濁っていなかったことを、呪うべきか喜ぶべきか。マルチェロは唇をきつく噛み、老人を見下ろした。
「信じるがよい。勇者は既に立った。世界は滅びぬ」
 老人はニ三度口を震わせ、手が衣の端を離れた。安堵のあまり泣き伏し、痩せた肩を背を全身を震わせる老人をマルチェロはしばし憎悪にも似た思いとともに見下ろし、やがて歩き出した。
 
  地獄は貪欲な口を開き、地上のあらゆる悪を飲み戻した。
  裁きの日の喇叭響き、天の扉開きて恐怖は消えぬ。
 
 苦い思いはすでに痛みであった。世界に見捨てられ世界に貶められてなおあの老人は世界を愛しているのだ。だが。
「――だが私は違う」
 これより先、いかなるものも私にとっては喜びとなるまい、と、マルチェロは考えた。あれほど望んだ権力も支配も、もはや喜びではない。吸う息すら毒液のごとく苦いであろう。あの四人が、憎み続けてきた弟が救うであろう世界、救われた世界に生きねばならぬとは。日の光すら暗く感じられることだろう。春の光、夏の風にすらもはや喜びを抱くことはないだろう。
 だがそのようにしても死ねぬとは。ああいっそ死ぬことができたなら良かった。崖から身を投げ剣で身を貫いて。だがそうはせぬ。それはできぬ。あれだけのことをしてただ死ぬことは許されぬ。あれだけの死、あれだけの悪をなして己が何者であったかさえ確かめずに去ることは許されぬ。そうとも、それだけはおまえの言う通りだ、弟よ、と、マルチェロは呟く。
 赤い天の下、天に伸ばされた手に似た樫の並木の道をマルチェロは歩き続ける。呪いと憎しみの嵐を身の内に抱きながら、それでも世界が滅びぬことを、憎み続けた弟たち四人の子どもが世界の救い手となることを、今はただひとり信じて。
 
  見よ、右手の人々は影より立ち出で、御前にぬかずく。
  千年の白き日に続く夜明けは今ぞ東の地平を飾れり。
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