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光は斜めに窓から落ち、塔の部屋の石壁に明るい四角形を映し出している。石造りの空間は無造作に押し込められたとおぼしい雑多とした品物――巻かれた絨毯や鍵のかかった櫃、灰色の布で覆われた調度らしいものなど――に埋もれていた。 それらは一見、秩序もなく詰めこまれたがらくたともみえた。だが灰色の布からのぞく卓子の縁に象嵌されているのは真珠であり、埃をかぶった黒い櫃の蓋を飾るのは木の葉の形に作られた金の細工。また一束に括られて投げ出された埃だらけの布には浮かぶのは、たぐいまれな織り手によって綴られた金糸や銀糸の細かな文様であった。もし注意深く埃を取り除けるものがいたら、それらすべてが誰か一人の嗜好や好みによって慎重に選び出されまた手ずから作れたものであったと知っただろう。そしてその誰かとはおそらく高貴の婦人であり、銀と柳を愛するひとであったと思い至ったことであろう。 ぐるりと部屋を見渡し、フェアノールは考えた。何もかもが昔のままだ。ただ過去はいよいよ遠くなり、部屋に積もる埃は少しばかり厚みを増し、そして私の背丈と髪が伸びた。 この部屋を見つけたのはいつだったろう、とフェアノールは埃にまみれた銀色の布を手に取って自問した。埃は静かに舞い立ち、光の中を金色に輝きながら漂った。 織姫と呼ばれた生母ミーリエルのことを、フェアノールは覚えていない。輝く黒髪と明るい灰色の瞳の持ち主であった母が失われたときはまだ、乳母の懐に眠る幼子だったのだ。それゆえ生みの母をまざまざと思い出すこともその思い出に心捕らわれることもなく、少年期の半ばにさしかかった頃にあらわれた二度目の母インディスを愛した。美を愛するノルドの血は義理の母の金髪と碧い瞳に新たに目を開かれるような美しさを見出し、素直に感嘆した。またヴァンヤの上級王の血を引く義理の母は、母親を知らない少年の望むほど優しく穏やかで愛情深くもあった。 しかし幸福な幼い日々のうちにも、フェアノールはふと疑問をおぼえることはあった。あれは――あの櫃、あの壁掛けはどこへ行ったのだろう、と。いつの間にか見慣れたものが視界から消えていた。それは些細なことだったし、育ち盛りでもあり鍛治師マハタンの教える新たな世界に心を奪われていた少年にとっては突き詰めるほどのことでもなかった。おそらく、とフェアノールは考えた。なくなったものはどれも、季節や流行にあわなくなったのだ。それとも父か義母が館の雰囲気を変えたいと思ったのかもしれない。どのみち子供である己が家内のことに口を出すべきではないし、それに、新しく飾られた海の図案の壁掛けは義母の金髪に素晴らしくよく映えている。かくして疑念は押さえ込まれ、日々は黄金の果実のごとく実り多く穏やかに来たり去った。 だからフェアノールがある日、宮殿の一隅に忘れられていた塔の螺旋階段を上ったのは偶然に過ぎなかった。だが鍵さえかかっていない扉を開いた瞬間、聡い心は理解した。どの一つも知っていると。集められ逼塞しているのは、銀と柳を愛した貴女、生母ミーリエルの名残、その記憶だと。 だがそれと知っても、悲哀について歌に聞いていたような、心臓を貫く痛みは感じなかった。頬にも涙は流れなかったし、悲鳴も上げなかった。生母の記憶を放逐した義母にもそれを許した父にも、憎しみなど湧かなかった。フェアノールは山と積まれた雑多な品の間を音もさせず歩きながら、このようなとき何を思えばいいのかと、ぼんやり考えた。 乱雑に積まれているのは銀の布、金の布。使いこまれた丸い手鏡。百合を刻んだ銀の櫛。耳の端にかすかな音を聞いて、フェアノールはそちらを見た。窓から入る光に絵の具を白く光らせた絵板があらわになっている。歩む足の振動が、あやうく引っかかっていた覆い布を落したのだろう。布を拾い上げようと背を屈め――見たのは。 白に装い白い面差しの、美しいひとだった。傍らには丈高い夫が立つ。絵師の写し取った唇の端の微笑ははかなさえ感じるほどに淡くかすかで、それでも幸福は滲むようだ。塔の片隅に忘却を願われて置かれた絵板の中で、その幸福な微笑は消えていない。 「……――」 フェアノールは絵の前に膝をついた。視界が歪み、頬を温かいものが流れた。胸を貫く痛みに吐息を押し出される。埃の積もった床に震える手をついた。滴り落ちた涙がその上に丸い染みをいくつも作った。光が移るまで、フェアノールは動かなかった。 そして、その日から何年が過ぎたのだろう。フェアノールの髪と背と技は伸び、義母は望んでいた子を身ごもった。父は生まれた男児に喜びをもってノロフィンウェと名づけた。ノルドールは嬉々として仕事に励み、技を尽くしてティリオンの白き都に輝きを加えた。ミンドン・エルダリエーヴァはいよいよ高く美しく聳え、全てが幸いのうちにあった。アルダの上級王マンウェ・スーリモ統べる至福の大地、浄福の国に影のあろうはずもなく。 フェアノールは銀の布を置いた。その背後で扉が開いた。 「――ここにいたのか」 聞こえたのは父王フィンウェの声だ。フェアノールは回想から醒めてゆっくりと振り返った。もう背丈では並ぶ父だ。常はおだやかなその美しい面差しに、今は陰りめいた憂いが浮かんでいるのが見てとれた。その額を飾る銀の飾り輪は、翼と海とを主題にフェアノールが作り上げたもの。全体にちりばめらた細かな水晶が水泡のように光を弾き、繊細ながら大胆で簡潔な銀の描線は例えようもなく優雅で鮮やかだ。鍛冶師マハタンに弟子が師を越えたことを認めさせた逸品であった。 「王宮を出ると聞いた」 単刀直入に言われた言葉に、フェアノールは少しばかり驚いた。温和な父がそうした話し方をするのを聞いたことがなかったからだ。 「まことか、フェアノール。おまえは私の長子ではないか」 フェアノールは何も言わず、父を見つめた。もとより口数の多い方ではなく、このときなおのこと言葉は見つからない。父王が視線を外し、部屋を眺め渡すのを見ていた。銀の布、金の布、鏡台に櫛。その顔に去来するのは悲しみや寂しさといった直裁なものでなく、ただ遠い遥かな過去を思う形定まらぬ憂いに過ぎぬ。父が視線を返し、口を開こうとするに至って、鋭く苦いものが内側に溢れるのを感じた。 「――」 石の壁をこぶしで打った。激しい音は塔の部屋に響き、驚いたように王は口をつぐんだ。フェアノールは再び拳を下ろした。眉一つ動かしはしなかった。 「何もおっしゃいますな」 それから、ひどく苦い思いに急きたてられてぎこちなく付け足した。 「――私の愛をお疑い下さいますな。――父上、どうか」 物問いたげな父をしばらく見つめ、フェアノールは視線を逸らした。どれほどの沈黙があったのか、肩に父の手が置かれるのを感じた。窓から斜めに差し入り、金銀の布の上に落ちた光は銀に金が混じり始めている。照り返した光は部屋の空間そのものを明るく満たしていた。 「王宮を出て、どこへ行くのだ?」 静かな声だった。 「……さて」 そうか、というためいきに似た声が聞こえ、肩から手の重さが消えた。やがて扉が開き、また閉じる音が聞こえた。フェアノールは振り返らず、父は深く傷ついただろうと思った。そして義母も苦しむだろうと。自分の決断は誰一人として幸福にはしなかったと。そして自問する。――それでも、ほかにどうすることができただろう? フェアノールは手を伸ばし、壁際に置いた絵から布を取り除けた。はかなく微笑むのは婚礼の日の母、傍らには丈高い父。欠けるところない幸福が絵の空白を占めていた。 母上、あなたのためではない、と、フェアノールは黙って考えた。あなたは私に幸福を願って命と名を与えてくださったのだ。だからこれはあなたのせいではなく、あなたのためではなく、誰のせいでもなく――ただ。 「悲しみが花開いたのです」 フェアノールは呟いた。絵の中の母はもとより答えず、そして今は父も義母も答えまい。手の中からこぼれる砂のよう、失うことばかり確かであった。椅子から目の詰まった灰色の布で作った上着を取り、わずかな身の回り品と使い慣れた道具がいくらか入った背嚢を床から拾えば出立の準備は終わった。身づくろいを終えて最後に見渡したとき、窓からの光のなかで、部屋は明るく、影さえなかった。 「――この悲しみを、生きねばなりませぬ」 フェアノールは低く呟くと、部屋に背を向け、扉から出ていった。 |