砂を流れる水....

 乾いた大地は、真昼の光の中では白瑪瑙に蛍石。どうかすると、千年前に死んだ野獣の名残が蛋白石めいた遊色模様を浮かべるかと思えば、枯れて久しい川床が虎目石のぬめった暗い繊維質の輝きを浮かべたりもする。だが美しいというにはあまりに荒涼として何もない。
 
 川床を流れていた水はどこへ行ったのだろう。地にもぐったか天へのぼったか。いずれにしても、この世で流れ注ぐべきいかなる海も見出しえなかったのだ。
 ククールはこの真昼、通いなれた枯れ谷を歩きながら、そんなことを思った。
 谷の先には赤錆色の花崗岩の丘陵があって、砂の海から突き出した一群の岩塊には、よく見ると幾つも黒い穴がうがたれている。その一帯は、ずっと昔に隠者たちが見つけ、俗世をのがれて住んだ場所だった。その後に、聖場として名高くなるとサヴェッラの管轄下となったが。とはいうものの、万に一つも無駄にしないことで名高い歴代の法王もこの辺境の地はもてあまし、結局ささやかな役目を課すことを思いついただけで、あとは従前通り自治に任せていたが。
「おい」
 ククールは岩に刻まれた急な階段を上りきり、その先、天辺の横穴の戸口で丸くなって眠り込んでいる男に声をかけた。男は目を開いて、黒衣のククールを認めると、驚いたように口を開いたが、ふと目を細め、低くごちた。
「そうか、もう一年か」
 男は腰に下げた鍵の束をがちゃつかせて立ち上がった。ククールは辛抱強く両腕を組んで、扉が開かれるのを待った。そこは赤い丘陵の中でももっとも高いところだ。眼下に岩が連なり、その果ては白金のように光る砂漠に消えている。ふと視線を上げれば、扉の上に掲げられた銘板が目に入った。
 曰く、『このゆえにその涙あり、主を恐れよ』。ククールはちりと唇の端を噛む。そのとき男、つまり法王の特別牢の番人が重い扉の鍵を開けた。その先には狭い空間が開いており、果て知れぬ深みへ沈む螺旋階段の数段が見えた。
「水はそこに汲んである。あかりはいいな?」
「ああ」
 重い桶を持ち右手にレミーラの呪文を灯したククールは階段を下り始めた。長い長いこの階段は、いったい何段あるのだろうかといつも思うが、数えられた試しがない。丘の高さ降りてなお余りあり、ひんやりとした空気は乾いている。
 階段を下り、下り、もうほかの何も考えられなくなったころに、地底の独房に至る。床は広く天井は高く、だが通る風も置かれる家具の一つもなく、方形の水晶のごとく静止している。ククールはその一隅に、腰掛ける人影を見出してかすかに笑った。
「……来たよ」
 歩み寄っても、黒髪の男は目を伏せたままで応える様子はない。ククールはかまわず手を伸ばして、その頬に触れた。温かい。だが仰向けられた顔の中の目は虚ろで、死者のようだ。ククールはかすかに目を細めるが、驚かない。
 
 
 サヴェッラが至聖位の簒奪者マルチェロに下した宣告はかくのごとし。
 汝が罪は大にして、海もこれを清めるに足りず、天もこれを覆いえざるなり。ゆえにここに宣す、汝、一切を失うべし。そしてそのようにされた。一年前に。
 
 
 滴り落ちる水の音はささやくようだ。ククールは兄の衣装を脱がせ、濡らした粗布で痩せた体を丹念にぬぐった。この一年、折に触れてしてきたように。
「よし、終わり、と。さっぱりしただろ?」
 簡素な上着の前をあわせてやり、ククールは兄の傍らに座った。それから少しためらい、おずおずと抱きしめる。布地の向こうから、じわりとぬくもりが染みた。
 一年、それが定められた罰の期間だった。
 効き目の遅い毒のごとく、呪詛は次第に育って視力を奪い、聴力を奪って、マルチェロにはすでにいかなる力もない。そして一年目のこの日、最後に残ったものも失われる。ククールは深い枯れ井戸の底に落ちたような、粘つく瀝青に沈み込んでゆくような、果てしなく暗い思いに眉をきつく寄せた。
 だが、どうすることができるだろう、運命はすでに来たのだ。流れの中で引き離されまいとするように、ただしがみつき、抱きしめるほかにない。
「あんたがいなくても世界は巡ってく。何もかもが、あんたを置いていく」
 ククールは囁いた。魔法の時間は終りに近く、レミーラの環は狭まってゆく。闇はいよいよ深く。
「あんたはそれで満足なんだろう。そうだよ、俺はあのとき、さっさと逃げようって言ったのに、あんた……」
 唇を噛む。光はもう、互いの顔を手をぼんやりと浮かばせるだけ。ククールは震えて、いっそう強く兄を抱く。だがこのとき呪詛はその最後の仕事を始めた。冬の朝のような冷涼な気配が漂い始め、腕の中の身体は。
「なあ、行くな。行くな…。兄貴、たのむ…」
 弱々しく囁くうちに腕の中の身体は崩れてゆき、顔をあげればもう何もない。ククールは目を伏せる。そのとき灯りの呪文は音もなく消えて、未生の闇にも似た果てしない暗がりが落ちた。
 
 
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