バジリスク....

 破壊と死の残り火に、ねじれた毒蛇さながら煙を噴き上げていた門も二つの塔も、長く伸びた山影に青暗く沈んで消えていった。
 陽の名残がまだ見捨てかねているのは高い主塔の上部だけだ。今しも燃え尽きようとする炬火のごとく、柘榴石のごとく明るく赤く輝かせて。
 
 
 夜半から始まった攻撃によって、城門が落ちたのは夜明けだった。一の塔は太陽が天頂に至るまで持ちこたえ、二の塔が落ちたのは午後の半ば。そして夕暮れが深まっても主塔は耐えていた。
 しかし、整然たる敗走と一寸刻みの退却の戦いの中で、篭城の騎士たちは一人またひとりと倒れていって、生きて夕べを迎えたのはわずか三人。
 そして主塔の中ほど、鉄の扉の奥でまた一人減る。
「もう水は、飲まぬ、な」
 マルチェロは横たわった騎士の傍らで呟いた。その手の中の椀には雨どいから汲んだ汚れた水が少し揺れている。腹や胸を血の色に染めた長身の騎士は身じろぎもしない。ついさきほどまで水を求めて呻いていたのが、もうその顔は死の色に沈み、もはや地上のものは必要としていないことは明らかだった。
 マルチェロは胸の上に十字を切って騎士の目を閉じてやると、立ち上がって最後に残った若い金髪の騎士のもとに歩み寄った。
「生きているか」
「もう、長くはありません」
 答える声はかすれて弱々しく、見上げてくる顔は土気色だ。その右腕は肘の上でいびつに断たれ、乱暴に巻かれただけの布から血が滴っている。
「そうか」
 マルチェロは囁き、膝をつく。そして穏やかに促した。
「最期の懺悔を」
「はい」
 青年騎士は頷き、苦痛に眉をしかめながら低い声で話し出す。
 残り少ない時間を知るものの早口で語られる罪は、罪ともいえぬもの。その年頃の青年であれば誰しも抱くであろう、ささいな怒りや迷いだ。
 マルチェロはどこまでも辛抱強く懺悔を聞き終え、古い典礼の言葉で許しを与えた。すると若い騎士の表情が安堵に緩んだ。
「団長」
「なんだ」
 血を流しすぎて目の光さえも曖昧なのか、若い騎士の手が何か捜し求めるようにうつろに動く。マルチェロはその手を取った。
「おれ、勇敢でしたか?」
「ああ」
 冷たい手がすがりついてくる。
「団長が言ってた、生まれついた身分に縛られない世界をつくれなかったのが残念です。残念です、団長。おれ…」
 青年は二、三度、あえぐように胸を上下させた。それきり言葉はもう発せられなかった。死にかけた者の震える手と指が、おびえたようにマルチェロの手を強くつかんでくる。
「恐れるな。おまえが死んでしまうまで、私はここにいるから」
 手を伸ばして血に汚れた髪を撫でてやると、青年騎士は目を閉じた。扉を打つ音は遠く下方で聞こえる。マルチェロは、塔の入口を閉ざす重い扉はあとどれだけもつかと自問し、死の方がすみやかだと気づいて、考えるのをやめた。
 
 
 大罪人として追われた元法王マルチェロが、聖堂騎士の生き残りを率いてサヴェッラに反旗を翻したのは半年ほど前のことだ。そこにいたるまでの複雑で入り組んだ事情をいちいち語ることは無益だ。ただこのようにいえば足りる。
 生まれついた身分に苦しむものたち、またそうした運命を疑い、覆そうとするものたちがマルチェロの下に寄り集まった。そしてサヴェッラはそれを看過せず、決裂した幾度かの会談のあとに戦いが始まったのだと。
 
 
 マルチェロはゆっくりと手を下ろした。片腕のない騎士はもう死んでいる。その死に顔は重い疲労と悲しみに悩むもののように眉を寄せ両目をきつく閉じて、安らかとは言い難かった。そして生き残りはもう、マルチェロ一人だ。
 それももう長くはない。金の環を提げた胸には穴が開いていて、そこから血が流れているからだ。最期の時を数える砂粒のよう厳粛に。マルチェロはほんの一瞬だけ天井を見上げ、それから床に置いた剣には目もくれずに、のろのろと螺旋階段を上り始めた。
 引きずるような重たい歩みとともに、死んだものたちの顔が脳裏をめぐった。禿頭の副団長、砂色の短髪の長身の騎士、パルミドから来た薄い唇の若い従騎士。すべてない。だれもみな死んだ、死んでしまった。痺れたような疲労と悲しみが重い。すべてが間違っていたのではないかとさえ思われた。
 私がもし正しい道を歩んだというのなら、私の信念がもし正しかったなら、とマルチェロは考える。なぜ誰も幸福になれないのか。幸福になれなかったのか。平等という理想そのものが間違っていたのか、それとも私の内なる古い憎悪が毒液のように染み出して、私を信じ、愛したものたちを殺したのか。見るもの触れるものすべてを殺し尽くし、見渡す限りを死に染め替える蛇の王さながら。
 苦悩は深まる。そのとき長い階段は終り、マルチェロは塔のいただきに立つ。突き刺すような赤い光に目を細めれば、暮れ空には銀の爪月が飛んでいる。それは遠く去ったものの記憶のようにおぼろに頼りない光だったが、見誤られることはけっしてない。マルチェロは慄然として立ちすくんだ。
「ククール…!」
 低くかすれた悲鳴は、おのずと唇から漏れた。あの弟はどうしてここにいない。何度でも引き止めてやると、死なせやしないと叫んだ銀の騎士は。
 その理由を、むろんマルチェロは知っていた。知らないはずがないではないか。サヴェッラとの最後の会談の日に、戸口に待ち伏せしていた射手の放った矢の前に立ちふさがったからだ、兄をかばって。護衛でもなかったくせに。こちら側の人間ですらなかったくせに。
 この腕の中で血は流れ、あの空色の目は力を失った、とマルチェロは考える。私はそのとき、なにひとつ言ってやりはしなかった。なのにあの弟は苦しい息の下で私を案じさえした。あんた無事か、兄貴。なら、よかった。そして死んだ!
「みんな死んだ。死んでしまった。わたしのあとには死ばかりだ」
 ふいにこみあげた激しい悲しみのままマルチェロは叫んだ。顔を覆う。
「おまえも私を置いていった…!」
 マルチェロは我と我が胸を激しくつかんだ。そこにある深手ごと。遥か下方で扉の破れる音がした。西の地平は太陽の末期の輝きにひときわ赤く燃えて、すべてに幕を下ろしに黒曜石の夜が来る。そして省みられぬままに銀の月は輝いていた。すすり泣く瀕死の男の背に寄り添って。
 
 
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