変奏曲....
 
変奏1
 
 その塔が建っているのは確かに城の敷地の中だったが、父親の情婦たちが住む庭園の向こうの瀟洒な小宅と同様、彼の生活にとっては書き割や背景に過ぎなかった。つまり、そこに一風変わった六角の塔を備えた別館があるのを彼は日ごとに夜ごとに見ていたし、城壁を一つ越えて、物寂びた小道を歩けばたどりつくと知ってもいたが、そこで自分に関わる何かが起こったり、あるいは起きている可能性があるとは考えてみたこともなかった。
 彼、ククール。王家に連なる由緒正しい公爵家に嫡男として生まれ、先ごろ成人したばかりの青年公子。金も若さも地位も持ち、さらに母譲りの銀の髪と端正な容貌ときては、若い娘から熱烈な視線を受けたり、金と閑のある既婚の貴婦人に濃厚な色目を使われるのには早くから慣れた。とはいえ、情や驕りに溺れるには如才なく生まれつきすぎ、社交界に派手な噂を振りまくわりには、悪い評判はほとんど聞かれなかったということも付け加えておこう。
 朝の光の中で、城壁の迫持をくぐり、ククールは細い小道をたどっていった。というのはその朝、キムゼー男爵夫人から、「わたくしのお友達へ」という心のこもった呼びかけで始まり、訪れのかなわなくなった理由を優雅きわまる筆で述べた手紙が届いたからだ。内容についても夫人のわびる気持ちについても得心のいく手紙だったとはいえ、ククールの一日の予定が白紙にかえったことはいかんとも仕様のない事実で、そのためふと、目の前にありながらこれまで行ったことのなかった別館を訪れる気になったのだ。
 最初に不思議の思いを抱いたのは、誰も住まぬはずの館が、近づいても見て取れるほどの荒れた様子もないことだった。白い壁に蔦は絡んでも、窓を閉ざしてはいないし、石組みにも乱れた様子は見て取れない。しかし、結局は万事を取り仕切る家令の有能さに帰して、そのまま歩んでいった。
 だがその次に気づいたことについては、これは、どのようにも既知のことからは理解することはできなかった。ククールはもうよほど館の近くに立ち、呆然と六角形の塔を見上げた。異変はその瞬間にも耳を打っている。
「――……」
 聞こえているのは音楽だった。かすかに、だが間違いようもなく。幽霊を信じるにはあまりに明るい朝であり、雲ひとつなく透き通った空でもあった。ククールは黙って扉に手をかけ、そっと押し開いた。その瞬間に、雷鳴のごとく音色はククールの上に降り注ぎ、身じろぐことさえ忘れさせた。
 音色。音。だがそれはむしろ光ではなかったか。どのような手、どのような想いであればこのような楽章を奏でられるのか、ククールには見当もつかなかった。天窓から光は斜めに射し、中空の塔の中ほどに据えつけられた巨大なパイプオルガンを照らし出している。銀の風管は明るく輝いている。旋律は百の断面を持つガラスの球のように変容し変容して過ぎ去り、大気に満ちる音楽の語る思想は深い悲しみに満ちる。それはほとんど一瞬ごとに百万の言葉で語り、理解を切にせまりながら、思いの中でさえ捉えられぬ。ククールは困惑とも感動ともつかない思いに捕らえられて立ち尽くした。
「誰だ!」
 鋭い誰何の声とともに、音楽が断たれた。はっと見上げたククールの目に一人の男が見えた。男はこの音楽の弾き手であるのに違いなかった。だがいま、オルガンの前に立ち、見下ろしてくる男には警戒と不審がありありと浮かんでいる。ククールは応える言葉を見つけかね、ぼんやりと男を見た。
「召使には見えぬ。客人か?」
 男は黒髪だ。青白い顔の中で、見下ろしてくる瞳は緑柱石の緑。ククールがなおも応えずにいると、穏やかに、だがはっきりとした拒絶の意図をもって扉が指さされた。
「この塔は、主人によって余人の出入りを禁じられております。無礼の段はお詫びするが、どうか早々に立ち去られよ」
「主人――公爵が?」
 思わず口をついた問いは、そもそも父親の口からこの塔の存在について聞かされたことがなかったため。「父」ではなく「公」と選んだのは無意識。
「さよう」
 辛抱強さと苛立ちがその声には潜んでいる。
「あんた、は…?」
 黒髪の男が唇を引き結んだ。怒りの気配は隠しようもなく。ククールはひやりとしたものを感じ、男が再び口を開く前に先を取った。
「あの、音楽が」
 男の眉がけげんそうに寄せられる。ククールは必死で後を続けた。
「あの、音楽が聞こえて。美しかったものだから…。あんまり美しくて」
 しどろもどろに言ううちに、男の眉がふと緩んだ。ずいぶんと美しい男だとククールはこのとき、突然に気づいた。年齢は、自分よりも上だろう。だが三十路になってはいるまい。男らしい厚みが身についている。
「こんな演奏を聴くのは初めてで…なんて言ったらいいか」
「お褒めの言葉、いたみいる」
 礼儀正しい言葉から冷たさや拒絶の調子は消えていた。だが依然として親しさも気軽さも感じられないことも確かであった。なにか粗相をしでかしたような、ぎこちない、落ち着きの悪い思いにククールは身じろぎした。
「音楽好きの客人のために、一曲、弾いて差し上げよう。だが、それを聞き終わったら立ち去ると約束して頂きたい」
 有無を言わさぬ調子があった。ククールは黙って頷き、高みの男が演奏台に向き直るのをぼんやり見上げているほかなかった。
 ストップを調節する木と木のこすれる音がコトコトと響き、続いて、意外に柔らかな、やさしい音色がこぼれた。雷鳴のようだった先ほどの曲には聞き覚えはなかったが、今度の曲はククールも知っている賛美歌だった。低音部を欠いた明るく澄んだ音は、激しい情熱ではなく、川辺や光の射す山の斜面を思わせ、追いかけあう旋律は祭りの日の賑わいを思わせた。そしてその奥底には、ほのかな揺らぎのように先の曲と同じ深い憂いが漂って、暗い淵の気配が、描き出される曲想の明るさを強調している。
 ククールは永遠ほどもそうしていられただろう。だが音楽は過ぎ去って、弾き手は立ち上がった。言葉で促しさえされなかったが、向けられた眼差しは厳しく、遅延も猶予も得られないことは明らかだった。それでも。
「…出て行くよ。出て行く。だけど、教えてくれ。あんた、誰だ? ―なあ」
 答えは扉を指す手だけだ。ククールは渋々と歩き出し、それでも扉を出る前にもう一度振り返らずにはいられなかった。
「名前、だけでも」
 男がわずかに頭を傾けるのが見えた。答えを期待していたわけではない。だが音色のなかの一つの音色のように答えは返った。
「――マルチェロ」
 
 
変奏2:
 
 広くもない塔の中二階の床の半分をオルガンが占め、残りはチェンバロと、それから五線譜が山をなしインクの瓶が無造作に投げ出されているテーブルが占める。演奏を中断したマルチェロは、テーブルとチェンバロの間で狭苦しくチェロを構えるククールを見据えて言った。
「楽譜にすべてが書いてあるわけではない。歌は、それはおまえが見出しおまえが導き出し、そして命を与えて、歌い出さねばならないものだ」
 それだけ言って、マルチェロはチェンバロに視線を戻した。鍵盤とその眼差しのあいだには豊かな緊張と深い愛情が満ちて、ククールは何とはなしに弓をかまえたまま息をひそめた。男の骨ばった長い指がそっと、鍵に触れ、そしてチェンバロは歌い始めた。
 ククールは息をひそめる。黒鍵の上を速くときに遅く、自在にマルチェロの指は走り、歌はそこから生まれ出て虚空に放たれる。低いハミングは音楽と語るようだ。立ち現れる音色の一つひとつがその本質において分かちがたく結びつき、それは一つの歌であると知れた。ああ、確かにこれは音楽、歌、教師の教えなかった生命を持つなにものかだとククールは考える。
 だがそれにしても、マルチェロとチェンバロの仲の良さときたら! オルガンなら年配の友人に対するように節度を持って奏でるマルチェロが、今は甘やかし笑いあい囁いて、まるで恋人とでも語らうようじゃあないか…。そこまで考え、それがまるで嫉妬めいていることに気づき、ククールは閉口した。ようやくククールは、この塔に入ってもただ突き出されることがなくなっただけだ。それだって、子供の頃に教養として習わされただけで忘れ去っていたチェロを引っ張り出してきて、二重奏の候補に強引に名乗り出たからに過ぎない――もっともそれもこの調子ではいつまで通用するか。
 不思議の国をめぐるように転調を繰り返した演奏が、最後に豊かな主和音を響かせて鮮やかに終わった。マルチェロはほんの一呼吸のあいだだけ名残を惜しむように押し黙り、ほっと短い息をついてククールを見た。
「――わかったな? 次もまたオウムのように弾いたら…」
「わ、わかったよ」
 ククールは慌てて答えた。もしそんなことになったらきっと、二度といい顔はしてもらえなくなるというのは十分にわかったからだ。マルチェロは疑わしいとでも言いたげにククールを一瞥し、またチェンバロに向き直った。
「素質はあるのだ。努力を惜しむな」
 ククールは思わずぱちくりと瞬きした。今、何と言った…。だが捕えなおす前にマルチェロが最初の一音を響かせ、ククールは雑念を忘れた。窓の外では真昼が過ぎ去り、夕方の華やかな赤みがかった光が窓辺を飾り始めている。
 
 
変奏3:
 
マルチェロは裸体にシーツを巻きつけただけの格好で、枕板によりかかって寝台の奥に座っている。日にあたることのない白い肩や鎖骨の上に黒い髪が散って、チェンバロの鍵盤ほどに鮮やかだ。その表情はどことなく頼りない。ククールは向かいあわせにかけて、そっと手を伸ばした。マルチェロは無言で動かない。肩口に触れる。指先だけでぎこちなく鎖骨をたどり、喉に触れて。マルチェロは身じろぎして、横を向いた。
「なあ。あんた――いま、怖い?」
 マルチェロは答えない。後悔しているのだろうかとククールは考える。考えながら肩を撫でた。手の甲を髪が掃く。かすかな震えが伝わってくる。
「怖がるなよ。俺、あんたのこと大事だから。なあ、何か、言ってくれよ」
 そっぽを向いたマルチェロの睫毛が音もなく瞬きし、かすかな苦笑がよぎってゆく。静かなためいきはククールに触れ、それからいささか無造作に、大きな手が頭を撫でた。
「なんだよ」
 ククールはくすぐったくなって笑う。鍵盤の上ではあれほど闊達に動く手はまるでぎこちなく、ククールの頭を撫でている。マルチェロが笑った。今度は苦さよりも甘さの勝る微笑だ。ククールは身をのりだして顔に顔を寄せる。頬を合わせ、鼻先で鼻先をくすぐる。息は近く酌み交わされていよいよ甘い。頭を撫でていた手がするりと滑ってククールのむき出しの薄い胸の心臓の上に置かれた。
「……Allegro」
 ククールは笑って、自分もまた手を滑らせてマルチェロの心臓の上に手を載せる。鼓動は暖かく、そして速い。初めてだといったこの肌のふれあいが、その鼓動を速くしているのだと考えるとなにともない陶酔に包まれる。
「Vivace」
 マルチェロが屈託なく笑い、ククールが笑った。ついばむような接吻を交わす。幾度か、幾度も。甘い音はスタッカート、調子を変え角度を変えて。最後にはスラーが来る。互いに互いの唇を重ね合わせ、ククールは舌先を差し入れる。戸惑うような最初の瞬間の後にはまた微笑。くすぐりあう舌で、重ねた胸で、鼓動も体温も交じり合う。ククールはマルチェロの体に手を這わせた。形をなぞるよう、こすりつけるよう。重ねた唇の間からかすか、マルチェロの声が漏れるのに、脳髄は痺れる。
 顔を離せば、マルチェロの目は濡れて、その頬は赤く、呼吸は速い。自分もそうだろうとククールは考える。こんなことには経験は関係ない。
「なあ…」
 ククールは膝立ちになり、耳元に口付けを落として囁く。
「なんだ」
 マルチェロの声は柔らかく、深く、今は濡れている。
「あんたのこと、好きだよ」
 視線が向けられる。その瞼にも口付けした。泣きたいほどの思いはチェロでなら弾けるだろうか。答えよりも先に、背を撫でる手があった。
「あんたのこと、好きなんだよ。オルガンとチェンバロの次でもいいから、あんたは俺のこと、好きだろうか…。なあ、マルチェロ…」
 抱き寄せられる。耳元には心臓の鼓動が歌う。ククールは少し笑って抱き返した。耳元をキスがかすめる。Allegro con fuco、愛の歌。独りの人間を音源として奏でうる限りの簡明さで。
 
 
変奏4:
 
傍らに、うつぶせで横たわっているのはマルチェロで、疲れきって眠っている。頬にかかった髪は厳しい面立ちを少しばかり若く見せて。ククールはぼんやりと開いた目で笑い、温もったシーツに頬をすりつけた。
 そうだ、奪ったり奪われたり、ほんとの情交はそんなことじゃない。触れて、触れられて、くすぐる息や甘い声や、他の誰も見たこともない聞いたこともない声や顔をとりかわすこと。じれったいほど少しずつ。
 互いの体を陣地に見立てれば、喜びとともに、またかすかな虞とともに少しずつその領土を征服し、全てを征服し、だが同時に自らを明け渡して征服されること。喜びに満ちて新たな領土を点検し、完全な同意をもって明け渡した領土を隈なくさらすこと。恥じらいながら与え、王者の贈り物を受け取るように相手を受け取ること。受け取られる喜びと、受け取る喜びが等質のものだということをククールは昨夜知った。それは混じりけない幸福で、それがマルチェロにもそうだとわかったから、なおのことにそうだった。
 ククールの指のひとつひとつにマルチェロはくちづけした。手首に、肘の内側に、フラウトでも愛撫するように二の腕をたどって、ついには肩に。どうしてそんなことをするのか尋ねたら、あの緑の瞳を柔らかく笑ませていった。「だって私はおまえの指にも腕にも肩にも礼を欠かしたくはないからな」。もちろん丁重な礼儀はそれではすまず、背や足や脚やそのほかもっと秘めやかな場所にも触れていった。そしてククールもそんなふうにした。
 とりわけ気に入ったのは青白いほどに色白いのにけっして弱々しくないその頸で。「あんたがチェンバロを弾いていて、ときたま項がのぞくと、俺、どきっとしてた」甘い懺悔に対するに、裸身の聴聞司祭は笑って髪を払い、そこへの口付けを許したが。許されるままに幾度となく口付けして紅色を散らしたが。  ククールは声にもならないひそかな笑いを漏らしてマルチェロに寄り添う。一つひとつのキスの感触は鮮やかに抗しがたく唇に蘇る。呼吸や頬を撫でた手や、その眼差しや。真新しい記憶はいくらも蘇って肌を撫でて行く。それは愛欲より、もっとずっと真剣で幸福なものだ。
「マル、チェロ…」
 ククールは囁く。髪に顔をよせれば冬の朝のような涼しい香り。窓の外は白みつつある。聞こえるのはヒバリの声。ジュリエットならナイチンゲールと言っただろう。だが何一つ畏れるもののないククールは温もりに身を寄せ、頬を触れ合わせてまた目を閉じた。マルチェロが目覚めて最初に見るのが自分であるようにとは、朝寝に途切れる前の想いだ。
 
 
変奏5:
 
 マルチェロは不機嫌に、台の上の譜面を指さして言った。
「おまえは字が読めんのか? なら私が代わりに読んでやる。『二台のピアノのための練習曲』。いいか、二台のピアノだ。一台じゃない」
 イヤミたっぷりの言葉をククールはたいして気にもせずに聞き流し、白鍵を叩いてポーンと一つ音を響かせた。
「いいじゃないか、あんたんトコにピアノは一台きりだし、幸いこの曲はそんなにややこしくない。ちょっと待って、俺、簡単な方やるから」
 マルチェロは無言で眉をしかめた。
「というわけで、もうちょっとつめてくれ」
 言うなりぐいぐいと押してきたククールに、マルチェロは更に渋面を深くしてわずかばかり場所を譲ってやった。どう贔屓目に見ても子どものようにとしか言いようがないほど夢中な様子でククールは鼻歌でハミングしながら譜面の音を追っている。こうなればもう自分の言うことなど聞かないことはわかりきっていたから、マルチェロは諦めて、ククールが曲の形を飲み込むのを待った。
「ヨシ、いいぜ、マルチェロ。練習! 俺、第一な」
「……」
 おまえはさっき簡単な方をやると言わなかったかと一つこづきたくなるのをこらえて、マルチェロはククールの手に重ねるよう鍵盤に手を置いた。
「アンダンテ、四分の四拍子。いくぜ、イチ、ニ、サン…」
 ククールの手が明るいハ長調の旋律を引き出す。追うようにマルチェロがその旋律を模倣する。旋律は歌い交わし、手は重なり追い越し追い越され、ときにほとんど絡まるよう。それでも機嫌よく第一楽章の三分の一ほど進んだが、とうとう途中でごっちゃになった。
「ちょ、あんた、頭下げてくれないと、俺が低音部に届かないじゃないか」
「バカを言うな、今のはおまえが私につっかかってくるから…」
 マルチェロがみなまで言わないうちにククールが笑い出した。それからあれこれとややこしい取り決めがあって、二人はまた揃って鍵盤に向かった。
「いいか、忘れるなよ、低音部は私が弾く。おまえは…」
「ハイハイ、じゃ、行くぜ」
「よし――…」
 ピアノが歌い始めた。さすがに流麗にとはいかなかったが、四本の手が重なり補い合って、一つの音楽を形作っていく。二人の手から別々に引きだされて生まれた和音は一つの手になるものかとさえ思われるほど自然でなめらかで美しく、時にからまりあい互いをかいくぐりながらつむがれる旋律は不思議な生気に満ちている。それでもマルチェロはどこまで進めるものか疑ってはいたが、ククールはそれなりに奮闘し、足らぬところはマルチェロ自身が足して第一楽章の最後の和音が鳴った。
「…」
 その響きを豊かに残して、ククールはそっと指を浮かせた。
「できるものだな」
 マルチェロは呟いた。この不思議な連弾は、とかく鍵盤上を自身の領土として見がちな演奏者の心を打つだけの魅力を感じさせた。早いトリルや、劇的な転調の瞬間が寸分のすきもなく決まればどれほど心地いいだろうかと思い、マルチェロは息をついた。その横でククールは顔を上げる。その頬は上気して明るく、目はぼんやりとしている。マルチェロはけげんに眉を寄せた。
「…ククール、どうした?」
 カゼか、と、続ける前にククールが言った。
「あーもう、俺、ドキドキした。あんたの指と俺の指がさー、先ンとこだけつつっと触れたり、肩抱かれるみたいだったり、あんたの息が俺の耳にかかったりさー」
「このバカたれが…」
 目をきらきらさせて語るククールの横で、マルチェロはもう二度とこんな連弾をするまいと心に誓ったのであった。
 
 
変奏6:
 
 夜半の窓辺に月影が渡ってゆく。豊かな音楽はマルチェロの手の下のチェンバロから、ククールの手の中のチェロから流れ出して交じり合う。見交わす目のあいだで拍子や強弱の変転さえ無音のうちに了解されて、音楽は滑るように進んでゆく。そのたゆみなさにククールはいつしか酔った。互いが互いを離れることなく応じ答え寄り添う音色のうちに、だんだんと彼我の心さえ交じり合ってゆくように思えてくる。それは非常な幸福で、ククールは恍惚として、もはや弓を動かす手の技にいらざる思考は混じらなかった。
 生きて豊かに流れていた音楽を殺したのは、鍵盤に叩きつけられたマルチェロの両手だ。二十もの音がいっせいに強音で鳴り立てて、流麗とした旋律を殺し、調子を殺し、ククールの心に突き刺さった。
「――マル、チェロ?」
 鍵盤の上に両手をついたまま、黒髪の男はうつむいて立ち尽くしている。表情は知れなかった。だがその手は震えている。怒りに? ――だがなぜ。
「なんということだ」
 低い声は、呪詛のように響いた。ゆっくりと上がった顔は青ざめていた。青ざめて、乱れた髪がかかり、死人のようだ。その目ばかり、釣りあがってククールをにらみつけている。釘のようにその視線が刺さるのを感じたようにさえ思った。
「なぜ私は気づかなかったのか」
 両手が鍵盤から上がった。弱い灯火の光がその喉元を戒める枷を鈍く光らせた。真鍮の枷には公爵家の大鹿の紋が刻まれている。所有の証として。マルチェロはその枷の上に右手を置いた。
「おまえが誰かわかったぞ。そうだ、なぜ気づかなかったのか不思議なほどだ。おまえはククールだ。あの男の息子だ、あの男の嫡男、おまえはククールだ。なんということだ、私はおまえを…」
 それより先は語られず、マルチェロは激しい音をたててチェンバロの蓋を閉じた。
「立ち去れ、二度と私の前に顔を見せるな」
 ククールはその激しい怒りの前に一言も口をきくことができずにいたが、このときにあたってようやく我に返った。だが開こうとした口は射るような眼差しの前に言葉をなくし、一言も発さないままに閉じた。
「立ち去れ。私はこれ以上の辱めを受けるつもりはない」
 退出を命じる荒々しい言葉の前に、ククールは蒼白になりつつも立ち上がった。ひどく惨めな思いのまま、チェロを引きずって歩き出す。立ち止まったのは戸口の前だ。ひどく惨めだった。怒りに燃えたマルチェロの眼差しは恐ろしく、その心がひどく傷ついただろうことを思えば辛く、だが。
「マルチェロ、俺は…」
 おずおずと振り返る。マルチェロはこちらに背を向けている。
「俺は、あんたを苦しめるつもりじゃなかったんだ。ただ、あんたの音楽があんまり美しくて、美しくて…俺は、ただ」
 ククールは震える手を握り締めた。胸のうちは苦しく、辛く、そして。
「あんたが、好きなんだ」
 答えはない。静寂は死んだようだ。空気はふいに冷え冷えとして、先ほどまであれほど生き生きとした音楽が流れていたとは信じられなかった。
「マルチェロ、何か、言ってくれないのか…」
 答えはない。ククールは黙って扉を出ると、寒い夜空の下に立ち尽くした。扉は背後に閉まり、胸の奥の涙はふいに溢れ出した。どうすることもできず、何を言うこともできず、ククールは長いあいだ、そこに立っていた。
 
 
変奏7:
 
 乱雑な部屋はカーテンを下ろして暗く、締め切られている。ククールは目を覚まし、カウチの上で毛布にくるまったまま眠っていたことを知った。カーテンの隙間からは明るい西日がほのかに漏れている。
「――それでも日は昇る、か」
 しばらくその光を見ていたククールは、髪をかきあげ、苦く呟いた。テーブルの上に乱雑に並んでいるのは空の酒瓶だ。そうだ、マルチェロににべもなくあの塔を追い出されてから、もう何日たったのだろう。飲んでは眠り、起きればまた飲んで泥のように眠る。何を考えるにも耐えられなかった。
 ひどい二日酔いにぐらぐらする頭に眉をしかめて毛布をかきよせ、カウチの上で体を丸める。目など覚めねばよかった。朝など来なければよかったのだ。影の中に投げ出されたチェロは横たわっている。ひどく壁に投げつけたはずだが、頑丈な楽器はニスひとつはげてもいない。そんなことはどうでもよかった。マルチェロはもう二度とこちらを向いてくれなどしないだろう。
 絶望の中に蹲り、ククールは目を閉じた。泣くにはひどすぎた。ともに過ごした時間も交わした口付けもなんの意味もなかった。彼をあそこに閉じ込めているのはククールの父親で、その血は疑うらくもなく血管を流れているのだから。
 はっとククールは目を開いた。なぜ父親はマルチェロをあの塔に閉じ込めているのだろうか。あの首の枷は何のためにはめられていたのか。マルチェロとは、あのオルガンとクラヴィーアの名手、黒髪と緑の目の男とは誰だったのか。ククールは自分が少しも知らないことに気づいた。それは確かに、マルチェロがそこにいる限りはどうでもよかったのだが――
 乱暴に扉が叩かれた。びくりとククールは身をすくませる。返事をせずにいると、ノックがもう一度。
「いるんでしょ、ククール! 開けるわよ!」
 ばたん、と、音をたてて扉が開いた。流れ込んできたまぶしい光にククールは目を細める。声の主は見ずともわかる。くびれた腰に手をあてたゼシカだ。
「うわっ、酒臭ッ! なにこれ、ククール。あんた、最近は真面目になったって聞いてたのに、なによ」
 ククールがへどもど言ってもぐりこもうとした毛布を引っ剥がされた。
「なんでもいいから、さあ、起きなさいよ。起きてさっさと支度をするの。リーザスから呼び出しといてこのザマは何よ。おじさまの新作の発表会に行くって言い出したのはあんたなんですからね!」
 有力な地方貴族の娘で遠縁の従姉妹にあたるゼシカに、ククールが勝てたためしはない。それはゼシカが常に善良で正しいからであり、今だってククールのことを本気で心配して引っ張り出そうとしているからであり、同時にその無類の向こうっ気の強さのためであった。
 問答無用で風呂を使わされ、髭をあたられ、髪を洗われ、正装を着せられる。酒臭さを消すために香水をたっぷりかけられたところで、ククールはうんざりして、なんとか行かずにすまないものかと考えた。だが馬車で一日がかりのリーザスから呼び出したゼシカにもすまなかったし、なにより一人で酒を喰らっていても気持ちが晴れないことはわかりきっていた。
「なんとか見れるようになったわね」
 豊かな胸を深紅のタフタのドレスに包んだゼシカがにこりと笑った。いつものククールならお世辞の一つも言うところだが、そんな気力はなかった。やつれた頬にゼシカが触れる。
「心配させないで、色男の従兄弟さん」
「…悪い」
「行きましょう」
 ゼシカは微笑み、ククールの腕を取った。
 馬車の窓の外次第に暮れて、城の影が近づく頃には宵にかかった。馬の蹄の音を聞きながら、ククールは目を閉じていた。出立のときに長い影を落とす西の塔を見たくなくて目を閉じ、それきり開こうと思わなかったのだ。
「もう着くわよ。でも、もう始まってしまっているわね、きっと」
 ゼシカが囁いた。ククールは目を開く。馬車は長いだらだら坂をもうほとんど上りきって、車留めに入るところ。きらびやかなお仕着せの近衛兵が馬車の扉を開き、侯爵家の名を呼ばう。ククールはゼシカに手を貸して馬車から下ろし、案内に従って奥の広間へ歩き出した。
「いつも思うんだけど、このお城ってあんまり趣味が良くないわ」
 小声で囁くゼシカに、ククールは少し笑った。確かに壁を鏡や絵で埋め尽くすような内装は品のよいものではない。しかもことごとく金箔で覆った光り輝く空間演出ときたら。
「いいんだ、来賓をおどかすのが目的なんだからさ」
「でも…」
「しっ、そら、着いた。もう演奏会は始まってるらしいな」
 扉の脇に立った二人の侍従が扉を開けた。音楽はあふれ出てククールを包み込む。そのせつな、ククールの思考は白く塗り替えられた。
 舞台にはチェンバロが置かれている。その傍らにはチェロが。音楽は四半分も進んだ気配で、主題は緊密な四声の中でさまざまに鳴っている。ククールはそれが何小節目で、どのようにこれから展開していくのか知っていた。そうだ、知らないはずがない。
(…どういう、ことだ)
 突如として立ち止まったククールをいぶかしむようにゼシカが見上げる。二日酔いがぶりかえしたようにぐらぐらと目の前が回る。引きずられるようにして客席の一つの座らされたことにもククールは気づかなかった。そうだ、音楽は、そのすべてが親しい。そうでないはずがあろうか。それは西の塔でマルチェロとともに弾いた曲だ。そこは強く、そこは弱くだが歌うように。指示する声のひとつひとつ、その瞬間の表情のすべてがあまりに鮮明だ。そして。ああ、そしてマルチェロは言わなかったか、これはおまえのために書いた曲だ、ごくささやかな小曲だが響きは気に入っている。おまえもきっと気に入るだろう、と。
 ククールは死人のように青ざめた顔を上げた。チェロを弾いているのは若い宮廷楽士、ではその楽士を眼差しで指揮しつつチェンバロを弾いているのは。
(親父…!)
 ククールはきつく目を閉じた。すべてが腑に落ちた。隣ではゼシカが、不安そうにこちらを見上げている。
 
 
変奏8:
 
 不安を孕んだ弦の響きが、長く長く弾きだされる。リズムは重く、舞曲の拍子を借りながら、その気分は沈潜する狂熱と倦怠だ。おそらく名前のない曲であり、これから後も二度と奏でられることのない即興曲だろうと、ゼシカは考える。だがこの従兄弟が、これほど一心不乱に、汗みずくになりながらも一瞬も休むことなく弦と弓にたたきつけずにはいられない激情とは何だろうと、扉の脇に立ったまま、深く胸を打たれずにはいられなかった。
 ククールは一つの影、部屋を照らす光は手元の小さな灯火だけ。その光の輪の中で、銀の髪はゆすられ、白い細い手が忙しなく動き続けて微細なビブラートや素早いパッセージを荒々しく生み出している。チェロにこの世ならぬ悲嘆を叫ばせているのは確かにその心だ。ゼシカは耳を澄ませた。
 どれだけ時間が過ぎただろう。始まりもなく終わりもない、およそ曲の体などなしてはいないのに、聞くものの心を揺るがさずにはおかないような激しさのまま演奏は続き、だが金属の弦が裂ける断裂音とともに、途切れた。
「ツ…」
 低い声。見れば、ククールは頬を拭い、その指は血の赤で濡れている。切れた弦が跳ねた瞬間に切ったに違いなかった。ゼシカは傷ましい思いに思わず進み出た。
「ククール…」
 のろのろと、重たく向けられた顔はひどく悲しげだ。
「ごめん、勝手に入って。――聞いてて。ケガ…したの?」
 ククールはしばらく何も言わず、やがて頷いた。大成功に終わった城の演奏会のあと、ククールはおかしかった。何も言わず、陛下からお誉めの言葉を頂く父親の姿も見ずに、帰還の馬車に乗り込み、館に帰ってからはたった一人で部屋に閉じこもってしまった。その顔は今も死人のように青ざめたままだ。髪は乱れて血を流す頬にかかり、いっそ鬼気迫るようだった。
 ゼシカは躊躇しながらも部屋に歩み入り、ククールの頬の傷にそっと、ハンカチを押し当てた。今、なにかを聞くことは、手ひどくこの従兄弟を傷つけることになるだろうと思えたからだ。
「目でなくってよかったわ…」
 囁いたゼシカの手をククールが押さえた。見上げる目は青い。青く涙をためている。ゼシカの記憶にある限り、ククールが泣いたことはなかった。
「ククール?」
 答えはない。青い目は閉じ、涙がその頬を流れ落ちる。嗚咽は低く漏らされて、何度もかぶりを振る様子は子供のようだ。ゼシカは腕を伸ばしてククールを抱き取った。恋になるにはあまりに幼いときから一緒にいすぎたけれど、とゼシカは考える。だからこそ、あなたがどうしてほしいのかわかる。どれだけ苦しんでいるかがわかる。
 ゼシカは何も言わなかった。泣き続けるククールを抱き取って、子供をあやすように揺らし続けた。倒れたチェロはククールの心のようだとゼシカは思った。弦は破れて。死人のように横たわって。
 
 
変奏9:
 
 マルチェロには鍵盤に向かって曲を作る習慣はない。五線譜の置かれたテーブルに向かい、ただ頭の中では出来上がっている曲を書きつけるだけだ。それは、もう何年も昔、音楽の師であったオディロの言いつけだ。
「すべて歌は神を称え、人の魂を喜ばせることを目的とする。奏でることもむろんそうじゃが、よいかマルチェロ。新しい歌を作るとは神聖なことじゃ。戯れに堕してはならぬ、不調和であってはならぬ。それゆえ、心のうちで一切を明らかにしてしまうまでは、五線譜に向かってはならぬ」
 常ならば穏やかなオディロが、ただ音楽においてだけは何事も譲らなかった。マルチェロはその言葉を心にとめ、破ることはついぞなかった。また、鍵盤の助けなど借りなくとも音楽は糸を引くように思案のうちに自然と紡がれて旋律は生まれてむしろ手が追いつくのがいつでも困難なほどだった。
 だが、近頃は様子が違う。青色で塗られた初冬の空を切り取る窓からマルチェロは黙って机の上に視線を戻した。窓から長く入る光は、まだ昼にもなっていないことを告げている。最近この塔では、とマルチェロは考える。妙に時間がたつのが遅くなった。それに、どうやら、居心地が悪いほど広くもなったようだ。そのせいか、曲を書きとめる手が途切れ途切れになるのは。
 扉が開く音がした。マルチェロはかすかに身じろぎし、だが顔を上げない。足音は老人の引きずるもので、のろのろと階段を上がってくる。お仕着せの老爺が姿を見せても、マルチェロは顔を上げない。
「お、おはようございます。昨夜の演奏会は盛況だったそうで。お館さまから手紙を言付かってございますよ。それと…」
 老人は机の上を眺め渡し、物問いたげにマルチェロを見た。
「渡すものはない」
「しかし…」
「ご注文は承っている。できていないと言っているのだ」
「――は、しかし」
 かつてない事態におどおどとした様子の老人を一瞥する。老人はしきりにまごついた様子でまだしばらく躊躇っていたが、そのうち奥の小部屋に消えた。細々とした用事を足す音が聞こえてくる。マルチェロは置かれた手紙を手に取った。流麗な文字が仰々しい家名を告げる。裏返せば赤い蝋の封印。手を伸ばして小刀を取り、折り返しを切り開いた。
 内容―。二重奏組曲評判良し、仏国風の旋律を取り入れた作品を今後も書くこと。しばらくは演奏会が続くが、既に命じたヴァイオリン独奏曲、オルガンカンタータは期日通りに書き上げること。Mの病状は小康に向かった、オディロ殿の年金についても不自由ないよう手配は継続する。以上。  むしろ何の感動もなくマルチェロは読み終え、優美な手紙を閉じた。イニシアルだけが記された母親と恩師の名によって心をかすめた思いは懐かしく、だが何一つ現状は動かないのだということも明らかだった。
「マルチェロ様、それでは私はこれで」
 用事を終えた老人が立っていた。マルチェロは沈黙を守る。
「夕食はいつもの時刻に運ばせます。ほかにお言いつけは」
「五線譜とインクが足りぬ。切れる前に補充を。仏国で評判の作曲家の譜面が手に入れば届けるように」
「は」
「それから」
 マルチェロはためらった。老人は辛抱強く立っている。
「何でもない。行け」
 老人は頭を下げて歩き出した。マルチェロは喉のあたりまで出かかった問いを反芻する。だがそれは問うことなどできない種類のものだ。けっして。そして。なぜなら、とマルチェロは考える。なぜなら、私はそれを知ることを望んでいない。
 マルチェロは窓を見た。日の光よりほか、音も風景も伝えない高い窓を。マルチェロは立ち上がり、チェンバロの蓋を開いた。
「オディロ様、お許しを」
 ひときわ鋭く、ひときわ切実な痛みに満ち、だがわずかも規律を外れることを許さない、そうした異様な緊張を帯びた響きが塔に満ちた。
 
 
変奏10:
 
 老いた家令は行く手をふさがれてはっと顔を上げ、そこにククールを見出して青ざめた。籠を抱えたままずるずると後ずさる老人ごしにククールは日の下に細く影を落とす塔を見晴るかし、それから冷ややかに言った。
「知っているはずだな、あんたは」
「私めは…」
「なんで親父はあいつをあそこに閉じ込めてる? あいつの曲を―」
 ククールは言葉を切った。頬の傷が痛んだせいではない。ずっと昔から、舞台の上でしか姿を見ない父親の、だがそのときばかり奏でられる音楽の溢れるばかり心を打つ旋律に陶酔し、甘い和音に心打たれ、ときには涙さえ落として聞き入ったことを思い出したせいだ。どれほど放縦で子供のことも妻のことも見向きもしない父親であっても、その音楽のためだけに尊敬の心を失ったことはなかったというのに。ククールは唇を噛んだ。あのエチュード、あのカノン、あのパルティータ、パヴァーヌ。心打たれたそれらすべてが嘘かと思えば内臓のよぎれるような苦痛が湧き上がってくる。
「あいつの曲を、盗んでいるんだ?」
「坊っちゃま…」
 あからさまな言葉に老人は、不安気に周囲を見回した。ククールは前に出た。いらだちと怒りと、それから父親に対する手痛い失望と。
「答えろ。いつからだ? いつからあいつは塔に閉じ込められてる?」
「いくら坊っちゃまでも、そればかりは…」
「ふざけるな!」
 ククールは手を伸ばして老人の胸倉をつかみ、乱暴に揺すぶった。取り落とされた籠が石畳の上を転がり、老人はよろめいてがたがたと震え始める。
「あいつを閉じ込めて、あいつの曲を盗んで、盗んで…親父は…」
 老人の喉がかすれた高い悲鳴を上げた。ククールは我に返り、家令を締め上げていた手を離すと、後ずさった。解放されてそのまましりもちをついた老人は荒い息をして青ざめている。
「ハ…」
 ククールはかすれた笑いを一音だけ落として顔を背けた。なるほどこの老人には何一つ言うことはできまい。召使われる身の上で、主人の秘密を漏らせば地下室で殺されてもおかしくはない。ククールは惨めな気分に沈みつつ、手を振った。
「失せろ。もういい。行け。行ってしまえ!」
 最後の言葉は悲鳴のように響いた。老人はそれでもしばらく呆然としていたが、やがて素早く身を起すと、声もなく逃げ去った。後には置き去りの子供のように籠が一つ残されているだけだ。
「ちくしょう…」
 ククールは呟いた。老人をおどしつけた自責と、それでもなぜ吐かせるまで問い詰めなかったのかという忸怩たる念とがせめぎあって、いらだちのままに籠を蹴り飛ばす。すると汚れ物と思しい布地がいくらか散り、いよいよククールを惨めにさせた。それでもそこに放置しておくわけにもいかない。落ちた布地を乱暴に拾い上げると、かすかに記憶にある香りが鼻腔に触れた。かすかに、だが間違いようもなく。我知らず、膝をついたままくしゃくしゃのシャツを顔に押し当てて声をかみ殺す。
 もう幾日、会っていないのか。思い出される記憶はその音楽でありチェンバロの黒い鍵盤の上を走る白い指であり、そこから情熱的に歌いだされる豊かな歌であり、また幾度も交わした口付けの中で盗み見た柔らかな表情だ。触れる吐息の感触さえ鮮やかに。
「…マルチェロ」
 今もまだマルチェロがいるはずの塔を見上げてククールはきつく唇を噛んだ。結びもしない髪は曇った空から吹き寄せるうそ寒い風に乱れる。そこに見えているのに、そこにいるに違いないのに、どうしてこれほど遠い。だがそこに行くことができないことも確かであったから、ククールは黙ってシャツを籠に詰めて立ち上がった。
 そのとき、カサリと音がして、風に揺れる紙片がある。切り裂かれた封、書かれているのは父親の文字だ。ククールは文書を拾い上げた。
「…? なんだ。二重奏組曲の評判よく…ヴァイオリン…オルガン…」
 そこまで読んでククールはそれがマルチェロへあてられたものだと気づいた。おおかた、伝言がすんだあとは焼き捨てるために家礼が再び受け取ることになってでもいるのだろう。そのまま籠に突っ込もうとしてやめる。
「M、は、小康状態? オディロ…誰だっけ…」
 ククールは思い当たる。確か、以前、東部の町で評判の高かった老オルガニストがそんな名前だった。だが、それとマルチェロに何の関係があるのか…。だがそれも手がかりには違いなかった。ククールは手紙を籠に押し込み、塔に背を向けて歩き始めた。
 
 
変奏11:
 
 悲嘆に満ちたフーガ。葬列の歩みのようなアンダンテのうちに、美しいが胸に染み入るような嘆きの主題を繰り返す。かつて一つの鍵盤が、これほど深い悲しみを歌い出したことはないだろうとさえ思われた。
「…おや?」
 最後の一つの音をゆっくりと大気に溶かしクラヴィコードから顔を上げた老人は、驚いたように瞬きした。それは風変わりな老人で、背丈はひどく小さいのに、髭も髪も白く長く見事だった。星霜を重ねた顔の中の見開いた瞳は青く明るく、威厳のある顔立ちだとさえいえるのに、その印象は明るい日に鳴り渡る鐘の音のように晴れやかで楽しげだ。つい今しがたまで、あれほど悲しげな音楽を奏でていたとは思われなかった。
「こんなに若いお客人とは珍しいのぅ」
 ククールは首筋あたりをかいて、後ろのゼシカを助けを求めるように見たが、赤毛の従姉妹はというと、村まで送るといってさんざん急きたてて館を出たくせに、およそ見当はずれな町まで連れ回されたことでさすがに腹を立てているらしく、ツンと向こうを見たままだ。
「えーと…。あの、あんた、オディロさん?」
 老人はこっくりと深く頷いた。
「そうじゃ。オディロじゃよ」
「えーと、オルガニストの?」
 ほっほ、とオディロが笑って、厳しさを含んだ顔はくしゃりと崩れた。思わず釣り込まれてしまうような笑いに、ククールはなんとはなしに心穏やかになるように思う。このじいさんは、と、ククールは考える。このじいさんは、なんだか、回りまであったかくなるようだ。
「昔の話だのう。若い者にはもう負けてもいい年じゃで」
 老オルガニストはよいしょと椅子を降り、ククールを見上げて言った。
「さて、ここは冷える。せっかくこの老人を訪ねて来てくれたのじゃ。あちらへ行って、お茶にしようと思うのじゃが、ご一緒にいかがかな? あちらのお嬢さんもお誘いして」
「お世話ンなります」
 格式ばかり教えられた儀礼を忘れて、ククールは素直に頭を下げていた。オディロというこの老人には、そうしたものを無にして、相手に遠慮や警戒を起させない何かがあるのだろうかと思ったのは、旧家の娘だけあって堅いしつけを受けているはずのゼシカが、躊躇ったりぎこちなくなることもなく、お茶の誘いに素直に応じるのを見てからだ。
 老人の住まいは立派でも大きくもなかったが、雑然としながらもどこか居心地がよかった。ククールは古ぼけたソファにゼシカと並んで腰掛け、先ほど玄関で応対した召使が持ってきたポットから、老人がお茶を注ぐのを待ちながら、部屋の中を眺めた。壁には田園風景の絵といくつかのメダイユ、何かの文書。書棚には楽譜と書物と古いが上等の金色した置時計。書き物机の上には五線譜とインクの瓶。あの塔の部屋とどこかしら似ているような気がして、ツンと鼻の奥が熱くなりかけるのを慌ててやりすごした。
「どうぞ、お嬢さん」
「ゼシカです、ありがとうございます」
 ゼシカは差し出されたカップを受け取り、そうそう身内以外の誰かに見せないとびきりの笑顔を浮かべている。オディロもまたにこりと笑った。
「さて、そちらの…あー」
「ククールです」
「そう、ククールじゃな。どうぞ」
「あ、サンキュ…じゃない。えーと、あり、がとうございます」
 カップからは暖かく薫り高い湯気が立ち上った。その心地いい香りを吸い込んで、ククールは肩をすとんと落とし、そのときふいに、自分が長いあいだ、体をこわばらせていたように思えた。
「よういらっしたのう、お二人とも」
 オディロが言った。それからその青い明るい目がくるっと動いてククールを見つめ、興味深そうにじっと見た。
「こんな所までお尋ねいただいたからには、どうも何かいわれがありそうにお見受けするのじゃが。差し支えなければ、用向きを伺いますぞ」
 
 
変奏12:
 
 天井の高い聖母学校教会のオルガンが、マルチェロはとても好きだった。確かに純正調を守るそれはもう時代遅れになりかけてはいたが、堂々としたストップや金の渦巻き模様で飾られた三段の鍵盤は愛らしく、響きもまた金色を帯びて美しかったからだ。特に気に入っていたのは、ボタンで操作するおもちゃのような小さなベルで、礼拝や婚礼には、明るい響きで歌った。
 マルチェロは聖歌隊の練習のない午後に、人影のない教会で、こっそりと大きなオルガンを弾き鳴らした。礼拝の時にふいごを押す老人が昼食に出ている時間が狙い目だったから、その役目はいつもダニエルに頼んだ。聖歌隊でソプラノのソロを歌う代わりに学費を免除されている給費生のマルチェロと違って、ダニエルは貴族の息子だったが、たいていマルチェロの頼みを聞いた。というのはどの授業にしろ、マルチェロのノートと親身な指導なしには合格をもらえないということがわかっていたからだ。
 いつかこのオルガンで主日ごとのカンタータを弾きたい、というのがマルチェロの何よりの願いだった。だがそれを声に出すことはない。もうじきに声変わりすれば、学校にもいられなくなるのがわかっていたからだ。
マルチェロは鍵盤を前に頭を傾げた。このあいだから練習しているフーガを弾こうか、それともつい二日前に聖歌隊で配られたばかりのカンタータのとりわけ美しい響きのコラールを弾こうか、迷ったからだ。
「……」
 弾き始めたのはコラールだ。足で操作するペダル部が多いのは難儀だが昨年からずいぶん背が伸びたせいで、トリルだってそれほど骨を折らずに弾ける。以前は半分ばかり椅子からずり落ちるようにして弾いていたものだが。楽譜は頭の中にある。
 コラールを弾き終えると、そのままオルガンに四声のフーガを歌わせ始める。こちらはなかなかの難物で、少しでも止まれば元には戻れない。オディロの作る曲はいつだって織ったように綿密で、無駄な音などなく、あんなにもやすやすと弾きこなしていることの方が信じられなかった。
 それでも注意深く奏でさえすれば、絹や緞子のような、滑らかな光沢を帯びた音楽が見えてくる。マルチェロは夢中で難しい中盤を乗り切り、それを過ぎるとややほっとして、すべての糸のほどけるような終結へと向かった。奏で終えて見上げれば、窓を通って差し込む日の光で通風管が明るく輝いている。
「見事な演奏じゃった」
 はっとして振り返ると、にこにこと笑みを浮かべてオディロが立っていた。その背後には「法皇」と学内外であだなされる長身の校長が。思わずうろたえるマルチェロの前でオディロが校長の方を向いて言った。
「さっき言うたことじゃが、少しは考える気になったかのう?」
「ふむ…」
 校長にじろじろと見られて、マルチェロは思わず下を向いた。禁じられてはいないとはいえ、許可なくオルガンを弾いていた現場である。オディロは怒っていないようだが、校長は…。
「よかろう」
 苦みのある声が言った。マルチェロは顔を上げる。校長はマルチェロを見下ろして頷き、ついでオディロの方を向いた。
「だが、すぐにではないぞ。マルチェロももう12歳になる、声変わりも間もなくだろう。その時がきたら、おぬしの弟子にするがいい。だが今はまだ、聖歌隊にいてもらわねば困る」
「それで決まりじゃな」
 きょとんとしているマルチェロの前で、オディロがにこりと笑った。マルチェロが何か言うよりはやく、高いところから歓声が上がった。
「バンザイ! マルチェロは学校を出ていかなくてすむぞ! 俺も卒業できるぞ!」
 ふいごの横で小躍りしているのは小太りの影だ。
「おお? あれはダニエルじゃな。あやつが一番うれしそうじゃな」
 オディロは言って、それからマルチェロを振り返って言った。
「のう、マルチェロ?」
 その時ようやく事態を飲み込んだマルチェロは、慌てて首を振った。
「いいえ、いいえ、オディロ様」
 喜びは息を詰まらせてこみあげる。この学校にいられる。オディロの教えを受けられる。そうだ、オルガンの! 頬を真っ赤にして、マルチェロは言った。
「一番うれしいのは僕です。僕です! 決まってますとも」
 オディロがやさしく微笑んだ。
 
 
変奏13:
 
 暗闇の中に手を伸ばした。血にぬめるなにかが触れる。探ればそれは顔と知れた。成果を知ろうと焦りと不安と早鐘を打つ鼓動のまま探る。額、鼻、目、口――。びくりとマルチェロは体を震わせた。指に触れたのは濡れた毛房、髭だ。髭。よく知る形がまざまざと脳裏に浮かぶ。まさか、まさか―。
「……」
 思考の停止した耳を打つのはすすり泣く声だ。声。誰の。泣いているのは。ダニエルだ。それでは、死んでいるのは。マルチェロが殺したのは。
「校、長…?」
 そうに違いなかった。その呟きと同時にダニエルの悲鳴が耳を灼き、弾かれたようにマルチェロは走り始めた。闇の中を、速く、速く。逃げたわけではない、そんな思案など追いつかないほどの動揺だ。いかなる表情記号も速度記号もあらわしえぬほど速く激しく混迷して物狂おしく、それはいかなる音楽より沈黙に似ている。マルチェロは叫びもせず、ナイフを握ったままの拳を開くことさえ思いつかず、ただただひたすらに走った。この夜のなんという暗さ。なんという果てのなさ。取り返しのつかない線が背後に引かれていることがわかる。引いたのは右手のナイフだ。
 恐ろしい死体の記憶が稲妻のようにマルチェロを打つ。ぽっかりとあいていた口、見開いたままの目、人間の温度を逸しつつある体。耳に蘇るの血が詰まりごぼごぼと鳴る喉、がさがさと床を掻く爪。傷口から噴出す血の高い響きと顔に散ったぬるい温度、弱々しい苦呻と痙攣。こと切れた死体がうつむいてごろりと…ひどく物質めいた音が。
(わたしが殺した)
 突如として膝から力が失せた。殺した。殺した。殺人だ。校長、あの威厳のある白い髭と髪と眉。オディロと並べば一層の長身に見えた。笑うことは少なく厳しく規律を重んじ…。
(わたしが殺した!)
 したたか地面に体を打ち付けて、マルチェロは低い声を漏らした。どこかが切れたのか、口の中に血の味が流れ込む。あの老人は死んだ、殺されて、苦しんで、死んだ。殺したのは右手の刃。
「――ち、が…」
 殺したかったのは校長ではない。あの男だ、あの男、再びマルチェロから一切を奪うために過去の暗がりから立ち現れたあの男だ。だがこの手が確かめたのは死んだ校長の顔だった、この手を濡らしたのは校長の血だった。
「――」
 なぜここはこれほど暗いのだろう? マルチェロは悲鳴を食い殺して顔を上げた。はるかに遠くにちらちらと瞬く光はあるが、それはあまりに遠すぎる。右手のナイフが引いた線はいまは夜の大海ほども暗く広く横たわっているのか。救いもなく。だが、この朝には光の中にいたのに。朝には。
 
 
 朝には? 朝には、マルチェロは普段よりも緊張して指揮台に上った。そうであって少しも不思議はない。この日のカンタータは彼が初めて作ったものだった。聖歌隊とオーケストラの練習も彼が見たのだ。言ってみれば、このミサは少なくとも音楽の面では、マルチェロ一人が責任を持つべきものだった。
 マルチェロはちらりと客席を見た。この日ばかり、オディロと校長は並んで最前列に座っている。左右には着飾った貴族たち。座席は後ろの方まで、ずっと埋まっている。ウインクを一つ飛ばしてきたオディロに頷き返しながら、マルチェロは考えた。たった一つだけ残念なことは、母上が今日、来られなかったことだ。十七歳、学校に在学しながら作曲と指揮を任された者は初めてだと校長が言ったことを思い出す。
 だがそれも指揮棒を上げるまでのことだ。誘い出されたのは甘やかな弦のうた。コラールは神への曇りなき信頼を語る。我らはあなたの苦しみと血によって悪より贖われ、清いものとされた。それゆえ我らはただひとすじにあなたを信じる。あなたを求める。続くのはテノールの朗誦。我らは弱く、幼く、罪に惑う。だがこの心に言い聞かせよう、主を離れるなと。
 続くパートでは合唱隊は沈黙する。代わって管と弦が主題を噛み締めるように繰り返し、心に染み入るような変奏のうちに問い返し、揺り返す。内なる決意を確かめるように。そしてマルチェロは静かにソプラノを促した。明るい信頼と、己が心に向けた決意のアリアが輝く糸のように歌いつむがれる。最後は再び、コラール。全ての声が目覚めて、歌う。通奏低音に支えられた確固とした歩みは、光の中に歩みだすものの強さと清さ―。
 そっと、マルチェロは右手を閉じて、すべての音の終わりを告げた。オーケストラは手足のごとく合図に従い、音楽は余韻を残しつつ消え去った。肩からすうと力が抜ける。背後に湧き上がった拍手に振り返ると、天窓から降り注ぐ光が視界を包んだ。めまいのするほどの明るさに思わず目を閉じる。その一瞬だけ、マルチェロは身内に溢れた曇りない幸福な充実感に身を委ねた。
 
 
変奏14:
 
 ミサのあと、マルチェロはひとしきり、列席した市会の理事たちや、聖歌隊員の父母である貴族たちの祝福の握手や賞賛の言葉を受けた。その後ろに低い声で囁き交わす人々がいたとしても、それはこのとき、マルチェロとは関わりないことだった。オディロは微笑し、高い天井に十一月の澄んだ冬の銀光は映えて美しく、オルガンは光り輝き鎮座して、人々は着飾っている。それで十分でないはずがなかった。
「いずれあなたの良い後継者となりましょう」
 ソロを歌う聖歌隊員の父親でもある中堅の貴族の言葉に、オディロはいつものように笑って、マルチェロは慎ましく傍らで頭を下げた。あるいはそこには幾分かの世辞も含まれていたかもしれなかったが、それでもそれは悪いものではなかった。挨拶を終えて貴族が踵を返し、マルチェロはようやく周囲にほとんど人影がなくなっていることに気づいた。聖歌隊席はがらんとして、ただ総譜だけがぽつんと残っている。
「おやおや、話しこんでしもうたのう、昼の会食に遅れそうじゃ」
「どうぞ、先に行って下さいませ。総譜を保管室に置いてから参ります」
「そうか。あまり遅くならぬようにな」
 オディロは頷き、見事な円柱が柱のように立ち並ぶ堂宇の向こうの出口へ歩き始めた。その背を見送って、マルチェロは重厚な内陣の中ほど、石造りの聖歌隊席の方に歩き出した。歩みながら、笑む唇に上るのは、今しがたこの壮麗な教会に響いた音楽のこだまだ。明るく澄んで清く、幾つかの特徴的な和音が宝石のようにところどころに輝いている。
 そのフレーズがどのように心に宿り、その響きに自ら心を動かされたことが思い出された。そしてまたいざ展開しようとしてどれほど悩み苦しんだか。何度となく挫折しかけ、だが夢寐にも忘れがたく、そのためにどれだけ思案を重ねて多くの展開の形を考えてやったことか。そしてこの日、それが形を得て堂々と響き渡り、曇りなく歌われた。喜びと勝利の感覚に酔いつつ、マルチェロは総譜を取り上げた。そのとき。
「―」
 呼ばれた名に、笑みを消しがたく振り返り――マルチェロは凍りついた。立っているのは背の高い男だ。立派な鬘に威儀を正し、旅装とわかるいでたちながら重厚で金のかかった衣服を着込んで。その襟元の紋章は。
「――」
 語られる言葉の半分も、マルチェロは理解しなかった。その男が誰であり、その男によってかつてなされた一つのことを思い出せばそれで足りたからだ。ほとんど凍りついたように目を伏せてマルチェロは立ち尽くし、時間の感覚さえ消え果てようやく顔を上げた。男の姿はもう見えなかった。
 時刻は真昼、だが光はどこか翳ったようだった。笑いや喜びの感覚はどこか遠く置き忘れられた。マルチェロはわずかに頭を傾げ、考えた。どのようにすれば速やかに確実に心臓を突き刺すことができるのだろうかと。
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