Stand up, and ....

 幽閉の男は書物から視線を上げた。幼いころから幾度となく読んできた聖典ばかりがその長い虜囚の日々のために残された書物だ。塔の部屋は広くもなく、高い窓は遠慮なく豊かな光を満たしてくる。『汝敬虔なれ』とは文字ならずしてこの場所に深く刻まれた言葉だ。
 悪魔を気取るつもりはない、と、男は皮肉をこめて考える。生きて虜となる辱めをあえて忍ぶものに自らをそのように言う資格はない。あのとき地の底に落ちて死に霊となってなおも憎しみを燃やし続けていれば自らをそう呼んだかもしれないが。だが、それでは。
 新法王が彼を封じ込めた理由についてはわかりきっている。なまじ裁判にかけて片棒をかつがせた悪事について口外されては困るというのだ。『悔い改めの機会を与える』という口当たりのいい口実で幽閉し、ほとぼりの冷めたころにでもこっそり暗殺する腹だろう。だがそんなことはどうでもいい。
 自分がここに生きている意味はどうだ? 死ぬなら今日にでもできる。今すぐにでも。歯でもって舌を食いちぎるだけの覚悟を持ち合わせていることについては疑いはなかった。だがそうはしていない。これはなぜだ。それどころか眠る間を惜しんで聖典を開き、そのなかに何かを探すよう焦燥に駆られて読みふけっている。これはいったいどういうことだ。
「救いでも求めているというのか」
 低い声で囁いてみて、男は厳しく眉を寄せた。口に出して言葉にした瞬間にそれが正しいこと、まさに彼が希っていたことであるとわかったのだ。彼はむしろうろたえ恐れて粗末な椅子から立ち上がった。
 だがいかなる救いがあるというのだ。この手で罪なきものを殺した者に。邪悪に手を染め、あまつさえ暗いものを呼び起こしさえした者に。今もなお世界の四方で彼のなした悪が涙を呼び、悲しみの裾野を広げているというのに。
 あのような悪の代価が地獄であることは疑いないではないか、とマルチェロはうろたえつつ考える。厳しい天の主より支払われるにあたって永遠の責め苦こそ代価に似つかわしい大罪ではないか、と。
 だがそのとき鳥の羽音がして光が一瞬翳り、高い窓を打ち仰いだ目を光が打った。マルチェロは声もなく後ずさった。いまだ世界は彼に光を奪わず、大気を奪わぬ。これはどうしたことだ。これは。神の前に罪ではないとでもいうのか。否、罪であろう。まこと罪であろう。善なること全き神の目においてどれほど胸痛ましめる罪であろう。ではその慈悲は。その愛は。
「……」
 マルチェロは膝をつき深くうなだれた。雷に打たれたも同然であった。まこと面を上げるに耐え得ぬ愛であった。罪人にもさらに呼びかけられる声の強さよ。我がもとに戻れとは。夜の最中に迷ったものの上にさえためらいなく。しかもその声は幾度も響いたのではなかったか。初めは母の声をして、一度はオディロとして、また弟ククールをして。マルチェロはもはや身動きもならなかった。強情と絶望は仮面のごとく落ち、堰を切ったよう涙は落ちる。
 揺るがぬ愛は確かにあった。求めて得られぬと泣いていたものが。しまいには力ずくで手に入れようと願ったものが。なんということだ。常にそこに。
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