睡蓮....

 ぎらつく七月の真昼の日差しのなか、マルチェロは先を行く伝令騎士の赤い衣を追って馬を走らせていた。マイエラとドニをつなぐ乾いた街道に、疾駆する蹄が掻き立てた土ぼこりは高く舞い上って、刈るものもなく立ち枯れ色あせた広大な麦畑の上を静かに流れていった。
 黒い病が死神のごとくドニの町にあらわれたのは半月前のこと。生きた体の中で体液の腐敗する死病は猖獗を極め、瞬く間に町人の半数が倒れた。急を告げる使者が修道院の門を叩いたのは十日前だ。オディロ院長は即座に看護と看取りにあたる修道士たちと死者を火葬し家を焼き清める騎士たちを向かわせた。暑熱のさなかとあって人の手の為しうることは少なかったが、七日を過ぎたあたりから、剣による道の封鎖と火と酢酸による防疫によって、火の手のごとき病もようやく勢威を削がれつつあった。
 マルチェロは、伝令騎士について死臭漂うドニの街を走り抜け、騎士団が駐屯する田舎屋の中庭に乗馬を止めた。一思いに鞍から滑り降りながら、扉の方に向けて声を上げる。
「伝令が着いた! 薬が着いたぞ!」
 呼ばう声に応えて走り出てきた年若い見習い僧が馬の鞍に結んだ縄をそれぞれほどいて運んできた酢や油の壷を外すあいだ、手綱を引いて待った。  もうどれだけドニとマイエラを往復したか知れなかった。疲労は極みに達し身体は重い。だがそれは馬も同じこと。マルチェロは報告のため先に扉に入った伝令騎士の分と二頭の馬の手綱を引いて、水桶へと連れて行った。ようやく荷物を外された馬は先を争うように水に頭を突っ込んだ。その手綱を立ち木につなぎ、埃だらけの獣の首を撫でた。
「すぐまた一働きしてもらうからな。たっぷり飲んでおけ」
 それから自分も喉の渇きを覚えて、飲用を許される煮沸した水をもらおうと扉を入った。長いあいだ陽光にさらされていた体に陰の涼しさは快かった。部屋の隅の水差しから少しばかり水を取って顔と手を拭えばひんやりとした涼気はなおさらに心地良い。たまらず容器を傾けて、思う存分に水を貪った。窓辺に集まった騎士たちの会話が耳に飛び込んできたのは、ようやく容器を置こうとしたときだ。
「それでは、領主の……」
 心臓が鳴った。領主。もう長いあいだ、考えることさえやめていた称号だ。だが一時も忘れたこともないことはこの心がよく知っている。そちらを見ることさえもできぬまま耳は縛り付けられたように聞くことをやめない。置きかけた容器はカタカタと細かく震えてしずくを落とした。
「それで、最初に倒れたものは領主の館から来たというのか」
「……さよう」
「して、領主からはこれまで」
「何も。だがあの性悪な男のことだ、我が家のみ悪疫を避けているのだろう」
「いずれにせよ、確かめねば。助けを必要としているかもしれぬ」
「――わたしが行こう」
 最後のそれは伝令騎士の老い錆びた声だ。歴戦の勇士であって、院長と団長の信頼の共に篤く、マルチェロが従者を務める。思わず上げた視線は、半ば白い髭を垂らす騎士の明るい茶色い目と重なった。
「水は飲んだな」
 マルチェロは黙って頷いた。
 それから間もなく、二頭の馬が連れ立って、ドニの町を出た。
 
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