睡蓮....

 マルチェロがドニの領主の庶子であることは、おおむね秘密に保たれてきた。オディロ院長と騎士団長、それから赤衣の騎士を含む何人かの古株だけがその事実を知っていたにすぎない。マルチェロはそうした思いやり深い保護に対し、誰よりも優秀であろうと誠実に努力することで応えてきた。
 それ以外に道などないと知っている、とマルチェロは考えた。過去や生まれに拘泥して何になるだろう。母親が望んでいたのは息子が幸福になることであった。父と慕うオディロを長足の進歩でもって喜ばせることはなにより誇らしく、心明るむことであった。ならばほかの道をとるはずもない。それは母を愛し院長を敬慕し、そしてよき騎士になろうとする彼の心にはあまりにも自明のこと、あまりにも自明すぎることであった。
 前を駆ける赤い衣が振り返って合図をし、次いで手綱を緩めた。続いて馬の歩調を緩めれば、二頭の馬が並ぶ。
「閣下?」
「上り道にかかる。並足を保て、馬たちが疲れておる」
 老騎士は低い声で告げた。その顔と髭は埃で汚れ陽に焼け、目の下に隈は濃い。おそらく自分もそうであろうとマルチェロは考えた。
「――は」
 疲れた馬の首筋に汗が流れる。ゆるい蹄は夏枯れた丘を登るだらだら坂にかかった。ドニの領主の館があるのはその頂上だ。見覚えのある樹影が目に映った。見覚えがあり、しかも歳月のうちにどこかしらが変わった影が。
 そして木立のあいだ、いっそ暗いほど晴れ渡った青い空を背景に、屋敷の高い破風と尖った屋根の頂の風見鶏があらわれた。降り注ぐ午後の熱い光を映して青銅の風見鶏はゆっくりとめぐり、なにかを告げるよう静かに光る。
 マルチェロは奇妙な思いに襲われた。道をたどるあいだは信じていた。おそらく身勝手な領主は身内とともに安全な館に閉じこもり、悪疫が去るのを傍観しているのだろうと。記憶の中の年老いた悪辣な老人なら平然と領民を見捨てるくらいのことはしかねぬと知っていたからだ。
 だが、このとき不安とも恐れともつかない思いが胸を過ぎった。館は死に絶えているかもしれぬ。生きながら腐り果てるむごい悪疫に冒されて、領主は、後ろ姿ばかり記憶にある銀髪の夫人は、母とともに放逐されるにあたって冷ややかな目で囁き交わすばかりだった女中や下男は苦悶のうち一人残らず死んだかもしれぬ。その考えは底知れない暗い激しさとともに、心の底のどこかこれまで知られなかった深い穴から湧き上がり、マルチェロは我知らずきつく左腕を握り締めた。
「マルチェロ」
 名を呼ばれてはっと我に返った。隣を行く馬上から老騎士のいぶかしむような視線が注がれていた。
「申し訳ございません、疲れが…」
「お前のことは知っておる」
 口調は常と同じく静かだ。伝説めいた噂のわずかも真実なら、団長位にあってもおかしくはない剛勇の戦士にふさわしく。伝令の誉れある赤い衣を与えられているとはいえ一介の騎士に留まるのは遠い昔、高位の貴族であったころ犯した罪を深く悔いているからだと同じ噂は伝える。
 その明るい茶色の瞳はマルチェロをちらと見て、それから前を向いた。
「わしが言うのはこれだけだ。――なすべきことをなせ」
 マルチェロは頭を垂れ、そして二人は丘を登るあいだ言葉を発さなかった。蹄の下で傾斜はだんだんゆるくなり、やがて石畳が音をたて始めた。前方にあった木立は頭上に移行し、梢のあせた緑は次第に空を覆った。閉ざされた高い門の前で、赤衣の騎士が馬を止めた。門前には散り落ちた葉が茶色く吹き溜まり、久しく往来するもののなかったことは明らかだった。二人は馬を降り、騎士は門に近づいた。
「門を開けよ、マイエラの騎士が来た! 門を開けよ!」
 騎士の声は響いた。だが黒ずんだ門の内側から答えはなく、人の動きもまた感じられなかった。騎士が門に取り付けられた金環を叩いて再び同じ言葉を繰り返すのを聞きながら、マルチェロは門の脇の立ち木に馬をつないだ。
 そして気づいた。門の脇の通用口が開いている。どうか神よ、とマルチェロは声もなく呟いた。強さをお与えください、この心に強さを。今こそそれが必要なのです。祈る思いを抱いて扉の前に立った。その向こうには見知った庭がある。遠い日々にそこで遊び、そこで母の膝に眠った。色鮮やかな睡蓮が花咲いた。
「酢でひたした布がいる。油もだ」
 いつの間にか傍らに立っていた赤衣の騎士が低く呟いた。ようやく陰り始めた長い夏の日の、暮れ方の風が起こって彼らの方に吹き付けた。それは濃密な死臭を連れている。
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