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二階の東廊下の窓の下に落ちているのは、はじめ黒い塊とみえた。だがマルチェロが一歩進み出た瞬間、表面をびっしりと埋め尽くしていた黒蝿が羽音もすさまじく飛び立ち、形のある悪意のように空間を飛び回った。霰のように降りかかる昆虫の群を上着で身を覆ってやりすごして顔を上げれば、そこにかつて人だったものの名残が姿をあらわしていた。 腐敗によって膨れ上がった死体の皮膚は黒ずみ、ところどころ裂けている。溶けかけた内臓と腐敗液は垂れ流れて周囲の白い石の床は脂じみて極彩色に光っていた。じくじくと汁を漏らす腐肉の裂け目に集塊をなしてうごめくのは無数の白い蛆だ。足音に驚いてか、あるいは饗宴の楽しみにか、競うようわずかばかりはね上がってはまた落ち、驟雨めいた音と腐敗液を撒き散らした。 「……」 これで幾つめ、それとも幾人めか。黒く浸潤されたお仕着せの衣装と、汚い宝石のように白い虫を散らした暗褐色の長い髪から女中であろうと思われたが、死体はうつ伏せに倒れていて顔は見えない。見えたとしても、それは誰とも名づけようのない死の姿に過ぎなかっただろう。そこまで考えて、マルチェロは、見知った相手かどうか自分は知りたいのだろうかと自問した。だがそれがどうだというのか。かつて母と子に辛くあたったものたちの末路を見届けたいとでもいうのか。このむごさに快哉でも叫びたいというのか。 そんな暗い思いを私は持たない、とマルチェロは呟く。赤い衣の騎士は北廊下をめぐっているだろう。その簡潔な命令をなさねばならない。生き残りを探し、あれば助けたあとに、なければ探索のあとに、館に火をかけ病根とともに焼き払う。それだけだ。そして秋には叙任式がある。私は良い騎士になる。だが、その言葉はすべて自らに言い聞かせ命じてさえいるもののよう。 酢に浸した布を鼻と口にあてていてさえ肉質の甘ったるい悪臭は染み入ってくる。べったりと肺腑にへばりつき、嗅覚が麻痺したあとも頭を重く痺れさせる。蝿はわんわんという羽音を響かせ目にたかろうと飛び回る。鈍く苦く響き続ける鼓動のまま、マルチェロは黙って歩き始めた。どの部屋も見覚えがあった。どの廊下、どの窓、どの角も。中庭を見下ろす張り出し窓に西日は長く射して、そこに腰掛けて夕日の沈んでゆくのを見ていたことを思い起こさせた。塗料のいくらかはげた階段上の引き戸は、その奥に子どもひとりの入りこめる狭い空間があって、誰かに叱られては隠れたことを思い出させた。 追憶は嵐のごとくマルチェロを襲い、抗いがたく捕え引き掴む。だが一方、目の前に開ける空間は汚濁めいた強烈な死に満ち、逃れることも目を逸らすこともできない。ああ、遠い日にこの廊下を母に抱かれて過ぎた。そのとき母は子守唄をうたい、その息吹は耳元をやさしくくすぐった。その手は温かく背を撫でた。それらすべてはまざまざと立ち戻り、目の当たりに見るよう鮮やかだ。だが耳を覆う蝿の羽音も腐敗の臭気も同時にある。薄れも遠ざかりもせず。 ひとつひとつの扉を開けるごとに、追憶と現実はないまぜになって混沌としてゆく。 マルチェロの頬からは色が失せ、その目ばかりが暗くぎらついた。半ば麻痺した思考を影のように引きずって、南廊下に曲がる角にさしかかる。視界に入った扉の並びにぎくりと身を震わせた。この廊下の真ん中、ひときわ重厚な、絡みつくつる草の彫刻された扉は、ドニの領主の居室だ。 「……」 どこか遠くで、羽ばたきをきいたように思った。それともそれは、胸の奥で嵐のように吹き荒れる暗い感情か。そのこだまか。なぜそれは喜びに似ているのかと悲鳴のように問う声は混沌に押しやられて遠い。騎士団の紋章を型押しした皮手袋の手は律儀に一つひとつの扉を開けていった。人間と鼠の死体を見出し、あるいは見出さなかった。生きたものは蝿と蛆よりほか、なにも。そしてわずかも変わらぬ同じ無造作な手つきで領主の部屋の扉を押し開いた。 はじめは何も見えなかった。カーテンを下ろした部屋は暗く熱気がこもり、ただ影の稜線がおぼろげに感じられただけだ。だが目は慣れた。そこにとくから知っていたものを探せば確かに見出した。まずはシャンデリア。わずかな光がそのガラスに映っていたから。次いで、正面奥の壁にかかった絵とその下の重厚なビロウド張りの椅子。絵はわずかに暗い金色に光る額縁が知られたに過ぎないが。足を踏み入れれば。左手に暗い木の大机。その上にはなにか紙のようなものが散っており、またペンの白い羽根が不吉な文字さながらぼうっと浮かび上がる。右手を省みれば椅子と金具の光る箪笥がいくらか。その奥に。 ――天蓋に包まれた寝台。 二本の足は彼を運んだ。思考はわずかに立ち戻り、そして意味もなく呟く。この部屋の絨毯には、子どもの足首まで沈んだもの。 |