睡蓮....

 マルチェロは暗い部屋を歩いていく。光は開け放った戸口から長く伸び、締め切った黒いカーテンの糸目からわずかに透けている。行く手は影に沈み、その影のさなかに怪物めいて寝台がうずくまっている。半ば透き通り半ば不透明な紗の天蓋を垂らす大きな寝台は奥の壁に寄せて置かれている。その壁の壁紙は幅広の葉をしたツタの絡まった柄で、色は暗さにまぎれいる。それら一切はたしかに見え、足裏にも毛足の長い絨毯の重く沈みこむような感覚はたしかに感じられた。だがすべては夢の中の風景のように現実感を欠いている。そうだ、マルチェロはよく似た悪夢を知っている。
 その夢の中で、マルチェロはいつも怖気ながら近づいていったのだった。年老いた冷酷で横暴な父親に怯えながら、それでも近づいていったのだった。だが父親はあまりにも恐ろしく、たどりつくより先に目を覚ました。それだけの夢だ。  それは生まれた屋敷を追われ、母とともに住んだアスカンタの遠縁の伯母の家の屋根裏で見た夢だ。パルミドの路地の軒下で見た夢だ。そこで起きることは常に変わらず、だが夢は次第に変わった。そうとも、変わらないはずがあるだろうか。
 アスカンタで母は、病んだ子供を医者に診せるために体を売った。そのことによって伯母やその粗暴な夫にひどく詰られ罵られ、屋根裏部屋からさえ追い出された。行き倒れかけながらもたどり着いたパルミドは強欲な町で、母が体を売り子供が盗みを覚えてもなにほどの足しにもならなかった。痩せ衰えた母はそれほど経たないうちに土気色の顔で絶え間ない咳をするようになった。そうなってはもう体を売ることさえできなかった。本当の飢餓と困窮と絶望の深さはその後に来た。ふたり住む家もなく雨に濡れ、食べるものもなく飢え、寄り添い抱き合うよりほか暖を取る手段もなかった。
 夢は次第に変わった。そうだ、夢は変わった。近づく幼い足が運ぶのは屋敷への帰還の許しを乞う切ない願いから怒りに、苦い怒りから暗い憎悪に、そして鋭い殺意に変わった。ただ、夢がいつも、父にたどりつく前に覚めることだけは変わらなかったが。
 どうして夢は忘れられたのだろう。導かれたマイエラの救貧院での母の最期の短い日々が胸引き裂くほど優しかったからなのか。それに続いたオディロ院長のもとでの修道院での見習い騎士としての日々が充実して誠実だったからなのか。
 こうしたことをマルチェロが考えたり思い出したりしたわけではない。彼はただ、ごく無造作に部屋を横切って、寝台の傍らに足を止めただけだ。だが同時に悪夢の風景をも過ぎったことも本当ではなかったか。今度こそ途中で目覚めることのない悪夢の。あるいは迷い入ったが最後、覚めることも終わることもない深い悪夢の。歩みにしたがって、忘れられていた切ない願いや悲しみや怒りや憎悪や殺意は息をするように戻ってくる。怒りは見えない炎のようだ。指先から湧き起こり、皮膚をやきつつ全身をめぐる。殺意はその後を追って冷たく表皮にさざなみをたててゆく。
 あるいはマルチェロはおぼろげに理解したかもしれぬ。どこかで何かが変わった。永遠に取り返しのつかない形で。だがそれに気づくのはまだ先であろう。天蓋の奥には紗を透かして人の形が浮かび上がっている。マルチェロは右手を上げて半透明な布をつかみ、無造作にひだを引いて暗がりをあらわにした。
「……」
 呼びかけは言葉にならない。ドニの領主は横たわっている。マルチェロは静かに腰の剣に手をかけた。磨き抜かれた鋼はどうやら嫌々と、苦しむような軋りを長く引きつつ鞘の口を削って姿をあらわした。マイエラの武人の誇り、騎士位の叙任に先立って与えられた院長の心づくしの贈り物はこのとき、そのように抜き放たれたのだった。
 振り上げた刃の切っ先は暗い視界に残曳した。幽鬼の残り火のごとく青白く、遠い日に放逐と拒絶を告げた目のごとく酷薄であった。
 狂気はわずかに切っ先と血を受けた父親とを隔てるわずかな距離にあった。そして一瞬のあとにはその距離も無となるはずであった。そうなるよりほかないはずだった。
 ――もし。
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