睡蓮....

 剣を持つマルチェロの手を力強い腕がつかんだ。次いですぐ近くで響いた声を、だが混沌とした耳は聞きながら識らない。つかまれた腕を振り払おうとやみくもにもみあううちに、ひどい衝撃が横面を張って、その激しさに、剣を奪われるまま毛足の長い絨毯の上にたたき付けられるようにして座り込んだ。
「マルチェロ!」
 呼ばれた名が意識に届いて、石でも嘗めたようなざらりとした異物感とともに、それが自分の名であると理解する。マルチェロは喉から低い悲鳴を漏らした。
「なにをしているのだ、おまえは」
 上から降ってきた言葉に、重い頭をのろのろと上げる。赤衣の騎士が厳しい眼差しで見下ろしている。だが頭は窒息したよう麻痺し、唇は乾き舌は上あごにはりついたようだ。そして奇妙な考えは喉元に詰まっている。その考えを言葉にするならこういうことだ。
 それが罪であるなら、それは私のためにあつらえられた罪だ。父を殺すのはほかの誰でもない。私が殺すのだ。切り刻み、責め苛んで殺すのだ。誰も邪魔をしてはならぬ。
 暗い思いがマルチェロの体に力を吹き込んだ。壁に手をついて、重い体をずるりと引き上げる。よろめきながら立った背を赤衣の騎士が支えた。哀れむ手つきで。子供を労わる様子で。だがこのときマルチェロは石の石、骨の骨。呼び起こされるものは何もない。
「気安く剣を抜くとは、物に怯えでもしたのか、おまえらしくもない。だがもうよい。西と北の棟はもう見た。夫人もその侍女たちも死んで腐っておった。――神よ、哀れみ給え」
 マルチェロは答えず、絨毯の上に落ちた刃を見た。それを拾い、力と技ではるかに勝る騎士を殺すか追い払うかするにはどうすればいいのだろうかと、静かに考えた。赤衣の騎士は、戸口の方を向いて言葉を続けた。
「夫人の宝石箱が物色されておったが、あれはドニの者のしたことだろう。これだけの屋敷だ、次に不運な盗人が入る前にすべてを焼かねばならぬ」
 一息のうちに剣を拾い、その背に切りつけることはできるだろうか。そうだ、屋敷ごと焼いてしまえば罪の痕跡もわかるまい。マルチェロは躊躇もなく思考を進めた。だが屈みこんで剣をつかんだところで、赤騎士が振り返った。
「油と松脂は台所で見つけて、中庭に出しておいた。さあ、来なさい。火をかけるのを手伝ってもらわねばならぬ」
 ひりつく猜疑の後で、気づいたのは違和感だ。なぜ赤騎士は言わないのか、生き残りの領主を運び出せと言わないのか。なぜ。マルチェロは黙って寝台を見て、そして思考を忘れた。それは何であるのか。それは。寝台の上にあるのは。
 暗い寝台の上には死骸が横たわっている。蛆も蝿もとうに見捨てた干からびた死体が。顔立ちも残らぬ顔からは鼻が欠け眼球はすでになく、上唇を虫に食われて黄色い長い前歯をあらわにした、笑うような顔貌を呈する死体が。蛆の出入りした小さな穴を乾いて黒ずんだ表皮に無数に残した死体が。半月は経過していると思しく、それでも死病の苦悶に骨のあらわになった指で虚空をつかんでいる死体が。
 それが誰か、もしくは誰であったかは骨の指を飾る金の指輪の紋章によって知れた。獅子はドニ、盾はその守護者を意味する。ならばドニの領主以外のものであるはずもない。その周囲には天蓋に閉じ込められた蝿たちの二世代かあるいは三世代分の殉死者めいた遺骸が胡麻でも散らしたように無数に点々と黒く散っている。
 どこまでが狂気のみせた幻で、どこまでが現実であったというのか。マルチェロは赤い背に続き、部屋を出て階段をくだった。頭上に天井が切れ、周囲に壁が切れた。マルチェロは中庭に立っており、頭上を見上げればすでに陽はない。たそがれの黄色が天を汚し、大気はその色に染まって不吉な明るさを残して広がっている。その底にあるのは睡蓮のはびこる浅い広い池だ。切り込みの入った丸く暗い葉は薄い貨幣のように重なり合っている。薄い色の花は傾いて半ば水に沈み、半ば浮かんでいる。薄く削りだした半透明なはなびらは不安に位置を占めて、遠くから見れば星のように幾つも浮かんでいる。
 奇妙なことだ、と、マルチェロはひどく暗澹として思った。ああした暗く淀んだ悪夢が、地上の美しさや喜びや、そのほかすべての良いものと地続きになっているとは。
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