睡蓮....

 上等なひまし油をまかれて鏡のように天井を窓を映す廊下の床を、誰にも見られぬままに青白い炎は軽やかに駆けていった。そうと見る間にカーテンは端から焦げ、油分を吸った部屋々々の絨毯の毛足は祭壇に捧げられた無数の小さい蝋燭の燃える様子をおもわせて細かな火を浮かせた。それは瞬く間に一続きの青白い毛布のようになって床面を覆った。廊下に沿って広がった青い炎は、そこここで赤い火となって立ち上がり、屋敷の内部を照らした。その赤々とした華やかな明るさは、王侯を招いた豪勢な宴でも始まったかのようだ。だがその実、それは、ドニを拠点として一時は南北双方の大陸に広く権勢を誇った領主の館で演じられた最後の饗宴、その破壊であった。
 睡蓮の花と葉にほとんど覆われた中庭の池は、ところどころにのぞいた隙間から、黄色い空と燃える屋敷を映した。熱気は強く、緋色の炎は窓から噴き出して屋根と壁とを舐めている。石壁はすすけ、つる薔薇は白い煙を吐きつつ焼け縮れていった。陶器や木材やガラスが熱で弾ける音が響き、梁が焼け細るにつれて全体がたわみぐらついた。
 火炎は全体に廻り、形定まらぬ腕で館を押し包んだ。上昇する熱気は風を立たせ、回転しつつ巻き上がる風にのって、炎と黒煙は背を伸ばすよういっそう高まった。揺らめくそのさまは嘆く女のようだ。その髪は千々に乱れ、その腰は伸びたかと思えばつづらのように深く曲げられる。
  二頭の馬が、だらだら坂を下りていく。馬上に振り返ったマルチェロの疲れた視線の先で、薄れ消え行く黄昏の黄色を背景に、風見鶏を乗せた破風が崩れ落ちた。帰還をあれほど望んだ屋敷がなくなったことを母の墓前に告げることはないと漠然と知った。憎み続けた父親を思い出すこともないだろう。悪夢を再び見ることもないだろう。
 だがそれだけではない。マルチェロは神を思おうとした。だがその試みは漠然と幾つかのことを思い出せただけに過ぎず、この昼まであったはずの生き生きとした祈りは胸に浮かばなかった。オディロ院長の暖かな手を思い出せばかすかに胸の底に温みは戻ったが、それでも来たときとは異なるものとして帰りつつあるということは確かだった。
「マルチェロ」
 呼びかけられて、マルチェロは前に向き直った。先を行く赤衣の騎士がこちらを見ていた。その目は落ち窪んで隈が深く、頬はこけ髪は乱れ服は汚れ果てて、つい何時間か前にこの道を逆にたどったときより十歳も老けたようだ。だがマルチェロは、自分もそう変わらない様子をしていることだろうこと考えた。
「無理はするな。疲れたであろう」
「――いささかは」
 確かに体は重く鈍い。だが脳髄は冴えていた。凍えるほど冷めていたといってもよい。そうでなければこんな問いが浮かぶはずはなかった。
「――閣下」
「どうした?」
「ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「屋敷で子供の死体はご覧になりましたか」
「子供?」
 赤騎士はしばし黙り、それから首を横に振った。
「いいや、子供は見なんだな」
「さようですか」
 マルチェロはそれきりもう問わなかったし、赤騎士も重い疲労のためにか問いの趣旨を聞き返しはしなかったから、それで会話は打ち切られた。
 重たげに頭を垂れて進む馬の蹄の音が続き、まばらな木々と立ち枯れた麦畑の上に夕暮れと夜が広がってゆく。道はどこまでも下ってゆく。天には星も月もない。だが馬の足元からは絶え間なく震え揺らめく影が落ちて、遠く長く行く手に伸びていた。 
 
 疫病の季節はほどなく終息した。だが完全な終わりまでにはまだ幾人かの犠牲者を必要とした。そのなかには赤衣の騎士も入っていた。生涯を一騎士にとどまった老人は、幸いなことにこの病の犠牲者にしてはそれほど苦しまずに逝った。その負う罪や伝説めいた過去が真実であったのかどうか、マルチェロが知る機会はついになかった。ほかにもまだ何人かの修道士や騎士やドニの町人が死んで、そうしてようやく、死は酷くもあるが慈悲深くもあるごく自然なもとの大きさに戻った。
 だが病の爪あとは深く、ドニの町が復興を遂げることはついになかった。領主の家の消滅によって庇護者を失った町は、病んだ土地を去ってマイエラにほど近い地に移り、そこで同じ名を名乗った。領主の家はついに復興されず、見捨てられたままに終わった。わずかに残った建物の名残もすぐに忘れられた。記憶されていたとしても、それは死病と悪評にまつわり近づいてはならない場所としてであった。
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