冬の夢....

 マイエラの夜は深い。石に閉ざされた館に星月の光は漏れ入らず、ましてや僧院中の誰もがそれぞれ分かれて孤独な祈りに過ごす冬至の夜であった。ククールは手の内のわずかな灯火を頼りに細い通路を歩いてゆく。古い暦の定める通り粗い毛織の衣を身に纏い、足はただ素足で。燭台の炎は歩みにつれ頼りなく揺れて、暗黒は不定形の獣に似て耳元に息づくようだ。それともそう思わせたのはただ胸のうちに抱えた心の暗さであったのか。
 心。こんなものはなくなってしまえばいいとククールは願い続けてきた。荒れ狂う嵐がこの三年というもの絶え間なくそこにあって、朝晩の祈りも信仰も鎮めることはできない。子供らしい盲従が剥がれ落ちて、隠されていた愛憎がとりかえしもつかない形であらわになったその日からこのかた。
 奇妙なことに、ククールはこのとき暗い心のほか粗悪なナイフを衣の下に持っていた。それはもとより決意ではなく殺意でもなく、この夜は騎士団長の栄位にある兄マルチェロも一人きりだと思い至った瞬間に、たまさか手の中にあったというそれだけのことに過ぎない。だが長い闇を歩むにつれ、懐に抱いた鋼は次第に重くまた暗く、心にのしかかる気配であった。
 このナイフで俺はあいつを殺すだろうか、とククールは考える。その心臓に鋼を刺し驚愕にゆがむ顔を見下ろすだろうか、流れ出す血の温度と冷えてゆく体のうつろな顔を知るだろうか、と。闇を行く歩みの中で、それは息が詰まるほど魅惑的な夢想であった。死んだ兄は拒絶を示さないだろう。死んだ兄はこの視線に気づいても軽蔑やそれよりも冷酷な無視の身振りをしないだろう。死んだ兄は口付けすることができるだろう。死んだ兄ならば。
 修道院と中州の小島をつなぐ川底の通路の永い行程を経て、ククールは再び地上に立った。この夜に騎士団長の宿る石のあずまやは、星空を丸屋根の形に切り取って闇に佇んでいる。熱病に浮かされたもののよう、寒さも覚えずただ歩み進めば、狂気のごとく灯火は揺らいだ。
 石の戸口をくぐり心臓の鼓動に追い立てられて見回した目は、石の壁にうずくまる影を見出した。それだけではや怯み始めた思いを落ち着かせようとククールは懐のナイフを衣の上から握り締めた。同じ毛織の衣を着込んだ兄は背を丸めて壁に身をもたせかけ、深い眠りのさなかにあるとみえた。
 誇り高い青衣の騎士団長を見慣れた目に、それは奇妙な眺めであった。頭を垂れて眠るマルチェロは昼間の記憶より幾分か若く、そして無力に見える。そうだ、無力に。蛇のように音もなく歩み寄って、ククールは兄を見下ろした。思い描いたどんな状況よりも整ったおぜん立てだった。今なら殺すにたやすいと思われた。そうだ、眠りのうちなら苦しみも少ないはず。
 ほとんど息もできずに立ち尽くした数秒の後、ククールは膝をついた。間近に見るマルチェロの顔は寒さに色を失い、息があるのかさえ疑わしい。思わず触れようと伸ばした手の先で、かすかに吐息が乱れた。鋼を抜き出しかけていた左手を止めて様子をうかがえば、身じろぎの気配とともに要領を得ぬかすかな囁きが耳に届く。
「……ッ――」
 押し殺した悲鳴が聞こえたと同時に、引くこともできずにいた腕をつかまれた。あまりの驚きに取り落とした灯火は音さえ残さず消えて、後には闇。鼓動が、とククールは考える。鼓動がうるさすぎて。俺はどうしたら。どう――したら。
 ひどくつたない動作ですがられた。どうすることもできずに抱き寄せる。腕の中の身体から発する呼吸は浅く速く苦しげで、薄い汗の香さえ漂う。悪夢にうなされ目覚めることもままならぬ兄をどうして殺せよう。
「……どうすればあんたを救える」
 ククールは囁いた。愛しもし憎みもし恨みもし殺したいと望みもしたが、結局のところ、自分は地獄の中を奈落に向かってひたすらに沈み進む兄の魂を救いたいだけだった。どれほど切に願っても、その手立てはないというのに。そうだ、その手立てだけがない。どこにもない。
 どうか神さま、とククールは心から祈った。兄貴を救ってください。兄貴を救ってください。俺には救えない。
 
 
 
 
*画像の著作権はTSさんに帰属します。またこの物語は、TSさんの絵から発想されました。掲載の許可を下さったことに深く感謝いたします/太郎飴
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