Angel....

 窓の外にすでに黎明は目覚め、刻限の迫っていることを告げている。騎士団の紋章をあしらった青玉と不壊石のカフスを留め、三叉を金で捺した真新しい鹿革の美しい手袋を手にはめて、マルチェロは青衣の高い襟を整え、背筋を伸ばした。澄んだ姿見の中の姿は一糸の乱れもなく、一点の染みもない。細部に至るまでその姿を十分に時間をかけて仔細に点検し、ようやく完全であると認めてマルチェロは言った。
 
「――行こう」
 
 その言葉を合図に竜を刻んだ巨大な青銅の扉は開け放たれた。マルチェロは踵を鳴らして歩き出し、青い衣の裾はゆるやかに翻った。長い道のりだったが、火刑台まではもう遠くはない、とマルチェロは考える。うんざりするような裁きの庭も陰謀渦巻く地下牢も通り抜けて、いまはただ短い朝の礼拝だけが最後の地と彼とのあいだに横たわっているのに過ぎない。
 
 ゲームのルールを定めたのは徹頭徹尾マルチェロだった。哀れな法皇ニノは急所を押さえられた犬のごとく唯々諾々として従った。たとえマルチェロが火刑台を黄金で築けと言ったにしろ、文字通りそうするほかなかっただろう。ただ新法皇にとってひとつだけ幸いだったのは、マルチェロが今はもうすべての形あるものを願ってはいないというその一事だった。
 
 そしてこれもルールのひとつ。騎士の装いに身を包み、マルチェロは壮麗なサヴェッラの大聖堂に入った。本来ならば朝の祈りの集いのときを迎えているはずの巨大な空間は、ウードの胴のごとくにがらんどうだ。ニノはこんなにも異様な朝を招くにあたってどのように人々を説得したのだろうとマルチェロはふと考える。それともそうさせたマルチェロが最後まで口を開かず沈黙を貫き通すことを――すべてのルールと引き換えにただひとつ与えた言質を守り通すことだけを汗のにじむ思いで願っているだけだろうか? その男の普段の言動からして後者であろうと思われた。
 
 
 マルチェロは朝まだきの薄闇を貫いて堂を進み、説教壇の真向かいに用意させた高い紫檀の座に上った。王侯の参詣のときにだけ用いられるそれは七段のきざはしとその頂に高い背もたれの椅子を備えている。上り詰めて振り返れば薄暗い虚ろな堂内は眼下にある。すべての柱は永遠に祈り続ける巨人のごとく、たたなう薄闇は深い思いのごとし。頭をめぐらせば飾り窓はまだ薄墨色に眠り、刻まれた柱頭は異形めいた影を晒している。
 
 マルチェロは静かに座についた。音楽もなく聖歌もなく、最期の朝の祈りをただひとりサヴェッラの壮麗な大聖堂にて祈らせよというのはニノにとっては理解の範囲を超えた願いであったことだろう。狂人を見る目でこちらを見た太った男を思い出して、思わず唇の端に笑いを浮かべだ。
 
「――狂気といわば言うがいい。法皇の殺害者、大量虐殺者、至聖位の簒奪者――そのような者にとって今更、それが何の痛痒だというのだ」
 
 神の庭の教えですべてが作られたもっとも壮麗な場所。どの敷石、どの形も天上の写し絵ならざるはなく、地上にて唯一、天使が棲むと言い伝えられる場所。マルチェロは端然として座り、静かに自問した。私はまだ信じているのかと。私はまだ神を信じ、そして天使を待っているのかと。
 
 かつては天使を待っていた。だが天使は来たことはなかったのだ。巨きな翼を開いて天翔る美しいもの、その手に力強く神の正義を持ち来るものは。遠い昔にオディロは寝物語に清い来臨の夢を語った。その物語を一言一句、マルチェロは思い出すことができる。
 
 ――サヴェッラの学僧時代のある日、早朝の祈りのとき。立ったまま半ば眠っていた耳に強い羽音が聞こえ、はっと顔を上げると、巨大な天使が聖堂をゆっくりとよぎっていったのだよ。その翼はこの世の外の風に支えられているよう羽ばたき、朝の光を受けて黄金に染まった顔にはこの世ならぬ至福が暁さながら輝かしく宿っていた――
 
 いかに現実の教会が腐敗し、救いがたく退廃していても、と、マルチェロは考えた。オディロ院長よ、ただ一人心からお慕いした父よ。あなたの信仰と篤実によって私は神を知り、長い間疑うことがなかった。そして一度は信仰を去り、この魂の翼が血に翳っても、私は天使を待っているようです。
 
 光が射した。マルチェロは静かに顔を上げた。朝は聖堂の上に廻りつつある。色さえ定かでなかった彩色硝子のひとつひとつが明るく点り、情熱さえ伴って色彩が目覚めていく。形のない精霊が息吹を吹き込みつつ音もなく走り抜けるよう。光は奔騰し、迸り、輝きつつまた煌きつつ溢れ、こぼれ落ちて、高座に居すマルチェロは千万の色彩に染められる。
 
 光はゆっくりと東の丸窓を満たした。それはただひとつの巨大な楕円形のメダルの形をしている。蛋白石と碧玉の市松文様の地に描かれた図柄は棕櫚の葉を掲げる天使だ。純白の巨大な翼を広げ、体を横倒しにして白い衣に風をはらむ姿は飛翔をあらわし、頭に頂いた百万の色彩なす円環の輝きは形なす祝福。顔立ちにあらわれているのは欠けるなき喜び。光は天使を満たし、その姿を輝かしく照らした。だが天使は丸窓より飛び立つことなく、その羽音が響くこともない。この世の風に揺れるには、鋼鉄の線で描かれた衣はあまりに強すぎるのだろう。マルチェロはかすかに笑った。たとえその神々しい頭の上に古い詩篇の言葉――見よ、我は天使を見出した――が刻まれていようとも、何の役にも立たぬ描かれた夢に過ぎぬ。
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