Cross, on your chest....

 奥まった静かな入り江には、古い船が泊まっている。仲間とともに旅した日々もいまは遠く、この七年のあいだ、揺れる船がククールの寝床だった。高い帆柱を備えた姿は家としてはいささか風変わりであったが、星霜に耐えてきた魔法の船はこの夕べ、その屋根の下に新たな客を静かに迎え入れた。
 ククールは誰もいない船室の暖炉の近く、藁の寝台にそっと鷲を下した。傷ついた猛禽は少しばかり翼をざわめかせて羽毛に包まれた体を丸めた。こちらを見もしない傍若無人な様子に少し笑い、ククールは膝をかがめ、頭を垂れて鷲の頭に囁きかけた。祈るよう。
「……マルチェロ」
 応えはなく、だが半時間ほどしてククールが古い桶に真水を汲んで戻ると、寝台の上には魔法を解かれた男が体を丸め、壁の方を向いて横たわっていた。ずたずたに破れた青と金の衣服、汚れた頬と乱れた髪のままで。それが誰かをククールは問わずもがなに知っている。
 ククールは黙ってその横を通り過ぎ、暖炉にかけた鍋に水を入れ、薪を足して湯を沸かす準備を整えた。そうしながら、自分がどれほど兄を愛しているのかを思った。切実に。そうだ、切実に。だがそれはこれまで切実でなかったことがあるだろうか。修道院の暗い日々に、長い旅の空に、そして聖地ゴルドにおける対決とその暗い終焉の後に。
 ククールは嘆息し、椅子を引いて寝台の横に腰掛けた。船室は居心地よくしつらえられている。壁にはレティシアの色鮮やかなタピストリ、暖炉の上にはサザンビークの優雅な陶器と古ぼけた海賊の帽子。鍵のかかる戸棚の中の道具類は親友が持ち込んだ使い勝手が良いトロデーンの産。編んだカゴや凝った織り目のカーテンはリーザス村からたまさか訪れる女友達の土産。壁の三叉はマイエラの院長室から盗み出したもの。咎めるものも今更いない。  七年は短くない、とククールは考える。たくさんのことがあった。たとえば親友は今ではやんちゃな双子の父親になったし、女友達は魔法の学校を開いた。山賊上がりのもう一人の仲間だけは、いつになったら女盗賊との結婚式の招待状をよこすのか知らないが。新法皇はなかなか精力的に教会の浄化に乗り出していて、自分もつい先ごろ一枚噛んだ。そんなことをぼんやり考えているうちに、鍋の湯が沸き始めた。少し笑って立ち上がった。
「あんたが起きたら、これまでのことをすっかり聞かせなきゃな」
 答えはない。聞こえるわずかな呼吸は眠る男のもの。熱い湯をたらいに汲んで兄の枕元に運び、柔らかい布を絞る。黙って手を伸ばし、兄の肩を引いてそっと上向かせた。起きる様子もないことにほっとしながら、熱い布でその頬を拭う。砂に汚れ、血がこびりつき、削げた顔。
「――、――」
 ククールは幾度か癒しの呪文を唱えた。額の傷、頬の傷、痛々しく赤い肉を見せて開いているのに新しくはない奇妙な欠落の数々に。次いで、かつては豪奢であったがすでにぼろ同然の服のそればかり喉元を守る襟に手をかける。カラーを外してあらわれた喉の青白さと鎖骨のあたりから下に向かって続くらしい赤い傷に眉を寄せた。留め金を外し、古い血に張り付いたシャツを苦心しつつはだけてゆく。ようやくあらわにした広い胸を見下ろして、ククールは愕然とした。垂直に胸の上下にわたって口を開けた傷は、心臓の上にさしかかって水平のそれと交わり、傾いだ十字の形をしている。そうだ、七年を経て生々しく、まだ塞がらぬこの傷は、これは、ゴルドのあの高い説教段の上で己がつけた傷だ、とククールは考える。痛みに満ちた記憶が嵐のように脳裏を走りぬけて頬から色を奪い、指先を震わせた。
「…ッ、――――」
 震える唇から高度回復呪文を囁くと、傷はかすかな光に包まれて閉じた。後にはうす赤く傷の形が残るばかり。ククールは背をかがめてその上に頭を垂れた。さらさらと流れた銀髪からはかすかな温度と淡い鼓動が伝わり、ククールは突き上げる感情の苦さと痛みに顔を歪める。
「わりィ…。痛かった、よ、な…」
 だがマルチェロは相変わらず死者のごとく身じろぎもしない。ククールはぼろ同然の衣服を脱がせ、傷を見出す都度に回復呪文を呟き続けた。
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