Cross, on your chest....

 マルチェロはかつてのその職責にふさわしく大柄であったし、そのわずかな傷も細心な注意によってゆるがせにされなかったから、作業を終えたころにはククールは疲れ果てていた。清めた兄の体に柔らかい毛布をかけて、ククールはのろのろと椅子に体を沈めた。窓の外はすでに暗く、部屋の中を照らしているのは暖炉の中の揺れる炎だけだ。仰向いて横たわる兄の顔は目を閉じていてさえどこか厳しい。ククールは目を閉じ、今しがた拭い去ったばかりの傷が生々しく閉じた視界に立ち現れるに任せた。
 あれは鞭の、あれは斧の、あれは槍の、あれは剣の。今では暗黒神の記憶すら薄れ掛けたこの世界で、マルチェロはつい先ほどまで生々しいままの傷を抱いていた。そうとも、変身の呪文は存在の根幹そのものを変え、身を変えているあいだは時による変化を受けない。傷のみならず、感情も記憶も。マルチェロの人としての時間はあのゴルドの日からそう長くは経たずに止まったに違いなかった。
「あんた…」
 ククールはぼんやりと呟いた。
「起きたらやっぱり、まだ、俺のこと、憎んでいるのかな」
 そして期せず胸を引き絞られる思いに襲われた。起きたら。だがルイネロは言った。そうだ、見出すと告げ、それから続けて言ったではないか。
(――心せよ、クク−ル。兄がおまえを見出すかどうかはわからぬ)
 そして変身の呪文によって破滅したものは幾人もいた。そして物語には、奇跡的に見出されながらも、結局のところ心を取り戻せなかった魔法使いたちの記述も伝わっているではないか。
「……」
 ククールはこぼしかけた悲鳴を飲み込み、すべり落ちるように椅子から降りて、床に膝をついた。震える手で毛布の下の兄の手を探り、捕える。
「マルチェロ。――マルチェロ」
 答えはない。恐れがククールを捕えた。教え込まれた祈りの言葉はどこへ行った。節くれ立ち剣を扱う硬い兄の指に指を絡ませ、愚か者のように兄の名を繰り返してその手に口付けするよりほかにない。屈強な腕を手首から口付けで埋め尽くしながら、寝台の上にずり上がり、その顔を見下ろした。
「――兄貴」
 答えはない。答えは常にない。あったことなどなかった、いつだって。額に額を寄せれば温かな呼気が触れてくる。伸びすぎた銀の髪を天蓋のごとく垂らし、それよりも透明な涙を雨滴と落として捕えた手を頬に押し当てる。ククールは弱々しく笑った。
「あんたが起きてたら、こんなこと、させてくれねーな……」
 震えながら重ねた唇は乾いて冷たく、思ったよりも滑らかだった。たたなう不安の冷たさに勝る物狂おしい熱が胸のうちに生まれ、血流に乗って運ばれていくのに時間はいらない。指先までが炉にあぶられたよう熱を持ち、喉から溢れた吐息は竜の火のごとく。
 ククールは上着を脱いで椅子の背に投げた。椅子はその勢いに押されてわずかに前の脚を浮かせ、それからコトンと音を立てて旧に復した。寝るという言葉に新しい意味を加えたばかりのように、体中が熱い。シャツのボタンを外してゆくことすらもどかしく、その間も兄の唇に頬に額にその目の上に口付けを降らせる。怒るなら怒ればいい、とククールは自嘲気味に笑う。起きて、押しのけろ。破廉恥だと罵れ。叩きだせ。剣を持ち出せ。火球呪文を撃ったらどうだ。それでもいい。ああ、そうなればいいのだ。
「あんたが、起きて…くれん、なら」
 笑っているのだ。笑っているはずなのだ。なのになぜこの視界がゆがみ、兄の顔の上には滴が降る。剥ぎ取るようにシャツを脱いで、袖が手首にかかって抜けかねているのもそのままに、ククールは高ぶる胸を重ね、兄の体を抱き取った。顔を押し付けたうなじからは海の香りがする。体の内側に電流のように走る熱に押されて、音のある吐息を幾つも落とした。
 そうしているだけで思考が端から白くなってゆく。鼓動が二重に響き、腕の中の体は呼吸の都度にあらわなほど上下する。手を伸ばして手指を絡め、指で指を愛撫する。その手がこの背を抱いてくれたらという願いは願いにすぎない。幅広いマルチェロの胸の、癒したばかり十字の傷の上に舌を這わせた。そこばかり薄い皮膚は吸い上げればたやすく跡が残り、その似つかわしくないほどの赤さは淫らがましく目を焼いてククールの陶酔を深くする。
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