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【キスする前に10のお題―6ひたいをあわせて。】
 マルチェロが台所に座って、取れたばかりの、秋の新ジャガイモの皮を剥いている。かつての聖堂騎士団長が前掛け姿で、ぎこちなくも粘り強くイモの皮を剥いていく姿に、感心したというか呆れたというか。
「どうした?」
 見入っていると、マルチェロが顔を上げて言った。
「あ、いや…。あんたでも苦手なことあるんだと思って」
 ごにょごにょと言うと、マルチェロは肩をすくめた。ようやく一つ、剥き終わったイモが水を張った桶に投げ込まれる。ククールが剥いたイモがつるんとした行儀のいい形で沈んでいる中で、そればかりひどく無骨だ。
「ホント……ヘタだな」
 返らない答えに、ククールはマルチェロを見上げた。眉間に皺を寄せて作業に打ち込んでいる。反論の余地のないことを自覚しているからに違いない。そう思うと、おかしくなって、こらえきれずに笑い声が漏れた。
「ククール、笑っているヒマがあったら…」
 あけすけに笑われ、さすがに堪忍袋を切らしたらしいマルチェロの言葉が、途中でぷつりと切れた。
「兄貴?」
 笑いを収めて見ると、マルチェロは渋面を作って指を押さえている。ぽつん、と、赤い滴が床にしたたった。ククールは慌ててイモとナイフを置いて駆け寄った。
「切ったの? なあ、大丈夫?」
「平気だ」
「いいから、見せろって」
 強引に引き寄せたマルチェロの左手の人差し指には、細く傷があって、薄く血が浮いている。
「どうせヘタだ」
 顔を上げると、そっぽを向いた兄の横顔が見えた。
「兄貴、ひょっとして、すねて、る?」
 今度こそ、返答はなかった。ククールはおかしさと、妙なくすぐったさのまま、マルチェロの顔に顔をよせた。視界に会いそうになるとふいっと逃げようとするのを追いかける。額を額に押し付けられて、そこでようやくマルチェロが諦めた。緑と青の瞳が出会う。ククールはなだめるように笑った。
「なんだ」
「キス、しよう」
 また返答がなかったので、ククールは、今度は了承を得たものと判断した。唇の重なる甘い音が小さく響いた。
 
 
【キスする前に10のお題―7しせんをむけて。】
 そろそろ晩秋にかかろうとする季節だというのに、この日は突如として夏が戻ったような暑さで、ククールは早々に、退屈しのぎ兼夕食のおかずとりの釣りを放棄することを決めた。履物を脱ぎ捨て、波打ち際を踏めば、削いだように薄い波が涼しく素足を洗った。水平線の彼方は薄く煙って、鈍色めいた空は視界の果てを閉ざしていた。
「青い籠の中みたいだ」
 踝までの浅瀬、来たり去る波は足の裏の砂をさらっていく。ふんと笑ってククールは、横ざまに走る赤い小さいカニを追いかけ始めた。のんびりと微生物を漁っていた生物は意外な追跡者の出現にちょっと戸惑い、だがすぐに機敏に走り始めた。子供のように追いかけっこに興じ、ククールは声を上げて笑った。だが熱中の甲斐もなく、カニは追跡者をかいくぐって小さな巣穴に逃げ込み、ククールはあえなく波の上にしりもちをついた。
 砂まみれの泥まみれ、これならもう濡れたってかまわないとククールは寝転がった。皿のように薄い波は髪を濡らし、体の左を濡らしていった。青ばかりの空から目を閉ざせば、潮騒ばかりが感官を満たす。
「なにをしている」
 どれくらいそうしていたのか、呼びかけられて目を開いた。太陽を背に、影が立っている。その形には見覚えがある。
「昼寝」
「潮が満ちたら、沖に流されるぞ」
 影がかかる。マルチェロが屈み、膝をついたのだ。斜め下から見上げた兄の顔は水面に移った日の照り返しに明るい。
「兄貴?」
 手を伸ばして兄の袖をつかむ。
「なんだ」
「起きるからさ…だからさ」
「だから?」
 視線が笑みを含んでいる。ククールはちょっとばかり腹を立て。また生来のいたずらっ気が顔を出したのもあって、兄の袖をぐいと思い切り引いた。
「お…」
 なかなか見られるものではない、驚いたマルチェロの顔が安定を失ってぐらりと揺れ、倒れ掛かってくる。どしんと胸の上に落ちてきた兄の重さを受け止め、ククールは声を上げて笑った。
「この、いたずらものめ」
 斜め上から聞こえた声は多分に苦笑じみてはいたが、怒っているような気配もなくて、ククールはまた笑って、兄の背を叩いた。ずるりと近づいたマルチェロの顔は潮と日に焼けた砂のにおいがした。
「ククール?」
「あんたさ…。なあ…わかってんだろ」
 一つ、ためいきが落ちてきた。続いて長くのびた黒い髪が垂れ下がって光を遮った。見下ろしてくる目が苦笑する。きっと自分があんまりじいっと見上げているせいだとククールは知るが、それでも目を閉じることはできなかった。見交わす視線の中で、唇がようやくそっと触れた。
 
 
【キスする前に10のお題―8かみにふれて】
 背筋を伸ばしてマルチェロは立ち、片手を窓辺に置いている。この朝、浜辺を満たしているのは亡霊じみた霧雨だ。その濃淡は青白く、潮騒さえもくぐもって夢の記憶のごとく確かには感じられない。
「湿気が入るから、窓、開けんなよ。兄貴」
 手持ち無沙汰な様子の兄の後ろで、広くもない船室にロープを張り渡していたククールが、手も止めずに言った。
「ほんと、イヤな天気だよな。しかも腹の立つことに、俺、昨日のうちにさ、汚れ物を洗っちまってたんだぜ。今日は天気になると思ったんだ」
「そうか」
 マルチェロは振り返った。そこに微笑があるのを見つけて、ククールは濡れた下着やシャツの入った籠を抱えたまま唇をとがらせてみせた。
「そりゃね、汚れ物はおおかた俺が作ったけどさ」
「そうだな、波打ち際にひっくり返って。私のこともひっくり返して」
 マルチェロはまた笑い、ククールの持つ籠からシャツを一枚引き出した。
「手伝ってくれんの?」
「そうしよう」
 パン、と小気味いい音を立てて、シャツが伸ばされた。洗濯物干しに関するマルチェロの手際は見事なもので、ククールは思わず見ほれた。シャツも下着も魔法のようにしわをのばされ、ロープの上でこざっぱりと翻る。
「どうしたククール、手がお留守だぞ」
「あ、うん」
 だがもそもそとしていると、「かしてみろ」と横からさらわれた。あとはもう瞬く間に空になっていく洗濯籠をのぞきこむだけだった。
「よし」
 すっかり呆気に取られたククールは、揺れる白いシャツをくぐって兄が戻ってくるのをぼんやり見ていた。日常の雑事をこうも見事にこなす騎士団長などというものを想像したこともなかったのだ。
「ククール、暖炉に火を入れるぞ。茶を沸かせるし、少しは洗濯物も乾く」
「あ、うん。水を汲んでくるよ」
 湯が沸きククールが茶を入れるあいだ、マルチェロは、洗濯物の森の様相を呈する船室のテーブルで、いつものように書物を開き、だが視線は窓の外に向かっていた。部屋は暖炉の炎で心地よく乾きつつある。
「マルチェロ?」
 茶碗を差し出したククールをちらりと見て、マルチェロは微笑し、それから立ち上がって、壁に飾られた三叉の前に立った。ここに至ってククールはマルチェロの心を占めているものに気づいた。そうだ、こんなふうな雨の日に葬儀は行われたのだった。こんなふうな。
「……」
 マルチェロの呟く祈りが聞こえてきた。ククールは立ち上がって兄の傍らに寄り添い、肩を抱くと手を伸ばしてその髪をなでた。少しばかり硬い髪は暖かく、ぎこちない指の間を滑った。
 ククールは考えた。あんたの気がすんだら、あんたの涙が止んだら、あんたの祈りが途切れたら、俺はきっとあんたにキスをする。そうしてわからせるんだ。俺があんたのそばにいるんだってことを、あんたと同じように悲しんでいるんだって、きっとわからせよう。それに、午後には雨も上がる。
 
 
【キスする前に10のお題―9あそんで】
 遠雷が聞こえる。ククールは身支度を終えて、振り返った。寝台のマルチェロはまだ眠っている。うつぶせに横たわる裸の肩が薄い上掛けからのぞき、伸びた黒髪が乱れて項にかかっていた。こちらを向く顔の中の目は閉じて、頬にかかる睫毛は意外なほど長い。その表情は安らかで、寝息は静かだ。俺はこれからサヴェッラまで行かなきゃならないのに、こんなのってありかよ、と、ククールはくすぐったいような思いに駆られて考えた。
 時間がないことはククールはわかっていたが、手を伸ばして兄の肩の辺りにちょっと触れてみずにはいられなかった。そうして触れてみると、少し冷えた皮膚は滑らかで、呼吸につれて上下している。てのひらを押し付けるようにすると温みがじんわりと伝わった。
 すっかり楽しくなったククールは、寝台の端に腰を落ち着けることにした。まず肩にかかった髪をちょっといじってみて、それから耳の上あたりに指を差し入れた。黒髪はやや冷えて硬質な感触を残して手の甲を流れ、指先はあたたかい頭皮に触れる。続いて梳くようにすれば、するりと音をたてて指のあいだを過ぎていった。
「…」
 ふと気づくと、寝ぼけた緑の目が、うろん気にこちらを見ている。 「おはよう、兄貴」  悪びれずに言うと、その目がはたりと閉じて、また開いた。ため息のような呼吸に続いてかすかに寝台がきしませて、マルチェロはものうげな仕草で仰向けに横たわった。
「出かける予定はどうした」
 ククールは少し笑って、背中を傾け、兄の顔をのぞきこんだ。
「―ククール?」
 重ねて問われるのに答えもせず、頬に頬を押し付ける。少しざらりとした感触があった。なんとはなしにネコの舌を思い出した。顔の上に感じる顔の造作はひどく生々しく、またくすぐったいような思いを掻き立てる。
「何をしている。遅れるわけにはいかないのだろう?」
 無造作に頭を撫でられた。せっかく結んだ髪がひきつれてくしゃくしゃになるのに、ククールは声を上げて笑った。都合よく屋根を打つ雨の音が響いてくる。それから威勢良く轟く雷と。
「俺は雷が怖いから、今日はもう、外には出ない」
 腕を回してマルチェロに抱きつき、その耳にククールは囁いた。
「雷が怖いとは初耳だ。髪を結び、シャツもカラーもつけたのに」
「ああ。―そうだね、なら」
 マルチェロが笑った。薄目を開けて。
「続きは言うなよ?」
「でも」
「黙っていろ」
「じゃあ」
 ククールは続きを促して首を傾げてみせる。マルチェロはもちろん、この遊戯のルールを知っている。暖かい腕が上掛けから抜けてククールの首を抱き寄せる。笑う二対の目は閉じもせず、唇は楽しく重なった。
 
 
10番目〜。  
 
 
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