Fire....
 船着場の高い塔から魔鳥の形をとったマルチェロは飛び立ち、今し月の昇り始めた東の方に翼を向けた。青白い月光は羽毛に覆われた広い翼を冷たく照らし出し、北風は耳元で低く高く啼いた。翼の遥か下方、地上は薄闇に閉ざされている。
 形態模写の呪文は禁じられている。肉体の変身は精神にも変化をもたらし、強力な魔法使いたちでさえ身を滅ぼす危険なしにこの呪文を使うことはできないからだ。獣や鳥に姿を変え、己がかつて人であったことすら忘れ果てて生涯を終えたものの物語は多く伝わっている。マルチェロもまた危険を知っていたから、禁書の棚で見つけた古い書物でおぼえたこの呪文を使うことは稀だった。だが、とマルチェロは考える。時には飛ばねばならぬこともある。そうとも、どれだけ速く走っても行けぬ場所にたどりつこうとするなら。
 船着場からマイエラまでは距離にして遠くはないが、街道の東西には荒地が広がり、人目を避ける盗賊には格好の隠れ家となっている。ことに西の海沿いの荒地には人の背丈ほどもある葦が茂って外からは見通せず、近寄りがたい。賊が潜むには絶好の場所であった。
 翼の下には闇が続き、マルチェロはより遠く見通そうと尾羽を下げて風を受け、高度を上げた。遠く地平のあたりにマイエラの聖堂の灯りがちらりと見え、陸の尽きたところから広がる海原に月光が映る。風はいよいよ冷えた。闇のさなかで瞬くかすかな光が見えたのは、月も天の中ほどに上ったときだった。それは初め水に映った月か星かと見えたが、近づくにつれ覆いに入れて運ばれる炎と知れた。
 炎。獣も住まない低湿地の冬には猟師も踏み込まぬ。それでは、探す相手に違いない。マルチェロは翼を翻し、羽ばたきひとつ立てずに枯れ木に舞い降りた。
「おい、何か見えたか?」
 草をかきわけつつ進む足音の中に、男の声を猛禽の耳が聞き分けた。
「いいや、何も見えねえよ。見えるのは草っぱらだけさ。わかったらさっさと歩け、このうすのろめ」
 こちらの声には聞き覚えがある、とマルチェロは考えた。確か、しばらく前に修道院に住み着いた下男ではなかったか。明らかに後ろ暗い経歴の持ち主で、好もしいとは誰も思わなかったが、例によって例のごとく情け深いオディロが哀れんだ。マルチェロは身じろぎもせず耳をすました。
「俺はもうこの忌々しい荒地はたくさんだ。草は足に刺さるし、あちこちブヨに噛まれた」
「泣き言を言うな。せっかくのお宝を使う前に騎士どもに見つかって縛り首になりたくないなら歩け。北の入り江まではまだ遠いんだ」
「俺だってありがてえお宝を拝みてえんだ。こんな所まで騎士どもだって追ってこれやしねえよ。入り江まではのんびり歩いて行けるさ。なあ、ちょっとぐらい俺にもお宝を見せてくれよ」
「くそ食らえ。お宝は明日、船に乗るまで俺が懐に入れて大事に持ってるぜ。指一本触ろうとしてみろ、腹に大穴開けてはらわたの上に寝かせてやる」
「わ、わかったよ。もう見せろなんて言わねえから刃物はしまってくれよ」
「さあもう歩け。昼には北の入り江のボートに着くぞ。そしたらパルミドにもどって好きなだけ贅沢三昧だ」
 炎と足音が遠ざかり、闇は静まった。それで十分だった。大陸の北のはずれは入り組んで天然の入り江が無数にある。盗人たちが目指しているのはそのうちのひとつであるのに違いない。マルチェロは止まり木を一蹴りして飛び立ち、夜半の空に飛び立った。すでにあまりに長く鳥の形でいすぎたことは明らかだった。不安は胸の上に明滅する。さらに遠くさらに高くを目指して夜空を飛ぶ思いすら、今は飛翔を愛する猛禽のそれだ。
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