Fire....
 矢のごとく人の思いのごとくマルチェロは夜空を駆けた。力強く羽ばたき気流を操り、船着場の塔へ戻らねばならぬ。勝算は胸にある。十分以上のものを手にするため剣は磨がれ計略は練られた。だが剣を振るうための手がどこにある。あるいは勝利の名誉を受ける誇らかな黒髪の頭は。マルチェロはすでに猛禽であった。燎原に投じられた小さな炎が最初ゆっくりとやがて勢いを得て荒れ狂いすべてを飲み込むよう、人の名残は急速に薄れつつある。多くの魔法使いが陥り破滅した危険な罠が追いつこうとしていた。
『――』
 火のように焦りながら、その焦りさえ猛禽のそれ。月光が落とす巨鳥の影は広大な野をよぎり人の家の屋根を瞬時に飛び越えながら迷走した。マルチェロはもはや行方を忘れ、もはや進むべき方角さえ見出せぬ。怒りと苛立ちの鋭い叫びが夜空を震わせ、眠る地上の獣たちの不安な眠りを破った。
 その響きは遠くマイエラにまで届き、老いた僧は寝床に起き上がった。
「院長? いかがされました」
 病んで長い高僧に夜通し付き添う若い修道僧が問う。オディロは若い僧の助けを受けて寝台を降り、おぼつかぬ足取りで三叉の前に進み出た。部屋の明かりは微動だにせず、影は静かに定まっている。なにか強い思いに襲われたよう、老いて青みがかった目を細める院長の顔を若い僧はのぞきこんだ。
「暗い翼、まことに暗い翼じゃ」
「院長さま?」
 老いた僧侶は深く嘆息して修道士を見上げた。
「まことにあの魂は、暗い翼で飛んでおる。わしにできるのは祈ることだけじゃ」
 老いた僧侶は静かに、祈りをこめて十字を切った。
 祈りは届いたであろうか。すでに自らの名すら忘れかけた猛禽は人の住まない草原と森を越えて飛行し、夜行性の目に古い館の痕跡を見出した。
 常のマルチェロが見れば知ったであろう。今では亡霊だけが歩むその館には幼時の幸福とそれに続く悲嘆と絶望とが沈んでいると。母の温もりの慕わしい優しさと、それとともに常に呼び起こされずにはいない喪失の激しい悲嘆とが。父の裏切りなどそれに比べれば瑣末なことにすぎない絶望が。いまは破れた屋根から漏れる月光に濡れる部屋にはゆりかごがあり、甘く優しい声の歌う子守唄が彼の眠りを守った。いまは茨より生えぬ荒れ果てた中庭で、遠い夏の日にジャスミンが甘い香りを放ち、幸福な母の膝元を飾った。
 常であれば知っただろう。眉ひとつ動かさなかっただろう。だがこのときマルチェロはマルチェロではない。そしてマルチェロが日に夜に鉄の自制心の檻に閉じ込めてきた激しい悲嘆と怒りは、魔鳥にさえ沈黙のうちに耐えることを許さぬもの。猛禽の鋭い叫びは夜をつんざいて響き渡った。その前方には、大陸を横断する山地、闇の中に月光に照らされた雪を頂いた巨大な峰々が白々と浮かび、夢の中の島々のようおぼろに連なっている。行く手を阻まれた翼は音もなく旋回した。偶然か、あるいは呼び起こされた記憶に触発されたマルチェロの意志の残り火であったのか、当初の目的地――隊長としての任務とその部下たちが今は眠る南の船着場の方へ。
 休むことを知らない思いのように翼は距離を無とする。廃墟の家を過ぎ、荒野を行き、高度を落としつつ灯り点す塔を飛び越え、月光の薄闇に沈む桟橋へ。係留する船の帆柱は空を支える巨大な柱さながら。そしてこの夜半、そこには何もないはずだ。何も――。
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