Fire....
 ククールはのろのろと桟橋を歩いて突端に至った。前には海がある。後ろには塔が。いびつな月は天に沖し、冷たい潮風が身に染みた。
「さみー…」
 ぽつんと呟き、風より冷たい係留用の柱に背を預ける。騎士たちは宿屋で眠っているが、ククールに眠りは訪れなかった。理由は簡単だ。ここにはマルチェロがいる。言葉少なく有能で、将来の団長候補の呼び声高い切れ者。そして血を分けた兄。どうしようもない胸苦しさに、冷えた手で顔を覆う。会えば後悔するのだ。押し殺した否定と拒絶と嫌悪しかそこにはないのだから。わかっている。いつだってそれはわかっている。それでも、会いたいと、役に立ちたいと、褒められたいと、名前を呼ばれたい、せめてその視線を向けられたいという願いは消えない。その思いはいつだって抑えきれず、だからオディロ院長は気の毒そうに目を細めて首を振って許してくれる。
「うーん、俺って、バカだ」
 続く嘆息が途切れる前に、激しい羽音が響いた。見上げた目の前で月光に翼が舞い、続いて柱の上に降り立ったのは黒い鷲だ。曲がった嘴と羽毛に覆われた巨躯は金属と見紛うほど鋭く月光に際立つ。声もないククールを鷲は睥睨した。内側から光放つかのごとき目は海の碧。堂々たる魔鳥はかすかに嘴を開き頭を傾げた。問うかのごとく。ククールは息を飲んだ。
「――」
 なぜその考えがひらめいたのかはわからない。それは多分に母親――善悪についての直感的な感覚が異様なほど明敏であった――の血のせいだったのであろうか。ククールは震える手を差し伸べた。
「まさか」
 黒い鷲は動かない。指先は今にも鋭い嘴に触れる。
「あんたか、マルチェロ」
 次の瞬間、腕の中に倒れこんできた兄を抱きとめて、ククールは大きくよろめいた。冷たいマルチェロの体からは魔法の気配が音もなく散ってゆき、重なった胸からは速い鼓動が、耳元の口からは苦しげな吐息が近い。
 なんてことだとククールは声もなく呟いて、腕の中の兄を強く抱きしめた。禁じられた魔法だとかこんな夜に何をしていたのだろうとか、問うほどのことは幾らも思いの縁をかすめるのに、場違いで得体の知れぬ幸福感は扱いかねるほどふくれあがって思考を忘れさせた。腕の中の兄が、潮騒よりも大きくはない声で弱々しく抗議の意思を示すまで。
「――せ。はな、せ」
 重たげにマルチェロの手はククールを押しのけようと伸びてくる。はっと我に返って体を離そうとしたものの、今度はその動作が性急すぎたのか二人して桟橋に倒れこみ、ククールは腰をしたたか打った。
「て……」
 眉をしかめつつ体を起こしたところで倒れたままのマルチェロが見えて、慌てて身を寄せた。おずおずと近づけば、目を開き不快そうに眉を寄せたが、手足がしびれてでもいるかのようにその動作は緩慢だ。
「兄貴」
「さ、わるな」
 その一言でもう手を出せなくなったククールの前で、のろのろとマルチェロは体を起こし、大儀そうに柱に背をもたせかけた。髪は乱れて顔にかかっている。その目が空を見上げた。つられて視線を向ければ、月は西の空にかかりつつある。それを確かめたよう、ようやくその顔から険しさを幾分消して、マルチェロは目を閉じた。ククールは何が起こったのかさえ定かでないまま、兄を煩わさぬようただただ息を殺して見つめるばかりだ。
 月が移った。マルチェロは静かに深い息を吐き、身じろぎする。
「――兄貴?」
 言葉と差し出した手はともに黙殺され、マルチェロは重たげな身ごなしで立ち上がり、おぼつかない足取りで扉の方に歩き出した。その姿はもういつものように厳しく、その背は否定の言葉のように近づき難かった。それでもククールは、兄が扉の前で足を止めて振り返りこちらを見たとき、かすかな希望が胸の中で惨めに疼くのを感じた。
「……」
 だがその視線は暗くククールの身内を射抜いたばかり。言葉はかけられずマルチェロの姿は闇に消えて、ククールは月光の下に取り残された。
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