風信子....

「手をにぎっていて、マルチェロ。母さんの手、冷たいけれど…」
 母親はしばしばマルチェロにそう頼んだ。握った手はいつも冷たく、その指は細かった。殺風景な部屋の中で、窓辺に置いたガラスの器だけが薄汚れていなかった。つぼめた手のひらのような形のその器に置かれた球根からは鮮やかな緑の芽が育った。母親は喜び、何色の花が咲くのだろうと何度も少年に尋ねた。だが花を待たずつぼみがつくよりさきに母親は、修道院の一角、貧しい病人が最期を待つ暗い部屋で逝った。
 それから月が満ち月が欠け、四月とともに春が来た。その明るい早朝、マルチェロは修道院を飛び出した。理由はかくのごとし。行儀見習いの貴族の少年が例によって例のごとく朝寝をし、同室のマルチェロはそれを咎めた。そこで癇癪持ちの小公子は激昂し、どこぞで聞き込んだマルチェロの母親についての捻じ曲がった噂を持ち出し、「娼婦の息子に指図をされるいわれはない」と言い放った。マルチェロは一言も答えず貴族の少年を殴り倒してさんざんに痛めつけ、そして靴さえはかずに飛び出した。
「あんなところ、戻るもんか、帰りやしない」
 歯を食いしばってあてどなく駆けながら、マルチェロは呟いた。風景は涙でにじみ、もうどこを走っているのかさえ定かでない。ようやく疲れ果てて立ち止まり、草むらに身を投げ出した。空腹より惨めさが身を噛んで、涙を手の甲でなすって目を閉じた。
 どれほどそうしていたのだろう。のろのろと身を起してみると、見覚えのある風景が目に入った。修道院からもそう遠くはない。川向こうの墓所だ。母の墓に通った道を、身体は勝手にたどったらしい。重い体を引きずるように、墓石のあいだにさまよい入った。
 そうして墓所のはずれ、つつましい母の墓にたどりついて、足を止めた。
「おお。遅かったのう、マルチェロや」
 振り返って柔和な笑みを見せたのはオディロ院長だった。涙と泥とで汚れた顔でぽかんととしていると、やさしく手招かれた。おずおずと近づいた背を労わるように撫でられて、墓石の前に立たされた。三叉の形した石には、母の名が美しく刻まれている。そして。
「オディロさま…」
 美しいガラスの器が置かれ、鮮やかな花が幾重にも開いていた。あれほど母の知りたがった色は目の覚めるような鮮やかな紫紺。まだドニの屋敷にいた頃の母の巻き毛のような愛らしさで咲き誇る。
「お母上がお好きだったと聞いてのう。一緒と来ようと思っていたのに、どこへ行ったかわからんというじゃろ。仕方がなく一人で来たのじゃが、会えてよかったのう」
 皺だらけの手が頭に置かれ、慈愛に満ちた目がのぞきこんでくる。深い哀れみは直裁に理解し、そしてすでに許している。マルチェロはうなだれた。
「よい子じゃ。おまえはよい子じゃよ、マルチェロ」
 名を呼ぶ声を聞きながら、マルチェロは何度となく涙を拭い、頷いた。
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