Ghost....

 『汝等しずまりて我の神たるを知れ』――。書庫の壁に気難しい司書僧が書いて私語を戒めたのももう昔の話だ。マイエラに昔日の隆盛はもはやない。ニノとそれに続く法皇たちが聖堂騎士団をサヴェッラに移し直属化したことで、騎士団による庇護や避難所としての能力、その武力を背景とした仲立ちの機能は失われ、自然と人々の訪れも間遠となった。ドニの酒場も門戸を閉じて久しい。
 ククールが物寂びた修道院に戻ってきたのは数年前だった。世界を経巡る気ままなひとり旅に飽きたとき、しばらく落ち着く場所といってはやはり幼時を過ごしたそこしかなかったのだ。女と結婚して家庭を築こうと考えたこともないではないが、どうした理由かこれはうまくいかなかった。
 とはいえ身軽でいること自体はククールに異論はなく、また人影少なくなったマイエラはもはやうるさく言うものもないせいか居心地は悪くもなかった。かつては見向きもしなかった書庫の本を漁るのを日課に、気づけばもう長い間を古巣で過ごしていた。今では、もうろくしかかった老僧と洟垂れ小坊主しか残っていない修道院の実務――といってそれほど多くのことがあるわけでもない――を一手に引き受けている始末だ。
「いいか、ほら。こっちが十二、こっちは九つ。あわせて幾つになる?」
 小春日和とでも呼びたいような、風のない、日差しの温かい初冬の日だった。回廊の内側、敷石のあちこち緩んだ中庭の陽だまり、枯れた噴水の縁に腰掛けて、ククールは小坊主の前に草の実を並べてみせた。いつも青っ洟ばかり垂らしている小僧は五つの年に両親が流行り病でいっぺんに死んだ。ただでさえ子宝に恵まれ過ぎている叔父夫婦は扱いに困ってマイエラの門を叩き、ククールは果たして断れなかったという次第。ジャガイモを剥きそこねたような丸顔の小坊主は七つになってもさして賢くもないが、雑草取りも下働きも厭わない真面目さにはずいぶんと助けられている。
「ほれ、あわせて幾つだ」
 ヒトケタの足し算はもう大分とできるようになったが、フタケタが絡むとなるとまだ怪しい。催促されてもうーとかあーとか不明瞭な言葉をうなるばかりの赤茶けた丸い頭をククールは笑って撫でた。
「よし、あとは昼飯の後だ。じいさまどもに食堂に来るよう伝えて来い」
「わ、わかっただ、お師さま」
 頭脳労働から解放された小坊主がとっとと走り去る後ろ姿を見送ってククールは笑い、それからふと顔を上げた。元の騎士団員宿舎の二階、団長の部屋の窓が目に入る。もう長いあいだ締め切られ、使われたことのない部屋だ。最後にその部屋の主人だった男は――ここにはいない。どこにもいない。世界のどこにもその消息を尋ね当てることはできなかった。
 ククールは左手を広げて見た。少年の手ではもはやない。皮手袋をはめた騎士の手でもない。生涯の幾分かを過ごして諦めを知った手だ。結局、自分は遠くに行こうとして行き得なかったのだと静かに考える。
「――?」
 耳を掠めたかすかな物音に、しばらくぼんやりとしていたククールは振り返った。川沿いの裏庭に続く扉を叩く音がする。いかにも小さな手で叩くような音に、小坊主がいつの間に戻ってきたのか、それにしては足音は聞こえなかったと怪訝に思う。それにしても、危ないから川の方には近づくなと日ごろ言って聞かせているというのに。ためいきをついて立ち上がると、回廊を抜けて扉を開いた。
「なんだ、誰もいねえ」
 誰もいない。冬の透き通った日差しは石の階段の下に広がる枯れた芝生を明るく静かに照らしているばかりだ。ククールは黙って扉から続く階段を下りた。やはり人影は見当たらない。もしやと波頭に光さんざめかせて流れる川に近づき、流れを見渡しても、人が落ちた様子はない。踵を返しかけて、奇妙な感じを覚えた。かすかに肌のあわ立つような、だが、何か――。
「……」
 それが何かをはかりかねたまま、ククールは扉を開けた。最後にもう一度振り返ったとき、川向こうにかすかな影を見たように思ったが、もう一度目をこらしたときには静謐な光が落ちているばかりだった。喉元まで出かかっているのに思い出せないような、釈然とせずに回廊を通り抜けて宿舎の食堂に入ると、二人の老僧と小坊主はもう先に席についていた。ククールはもごもごと遅刻の侘びを言って席につき、ナイフをとって黒パンをそれぞれに切り分けた。いつもはぼんやりと日向ぼっこするより能のない老人たちも、このときばかりはククールの手元に注意を集中する。だが感想はいつも同じだ。
「おぬしのパンの方が大きいのう」
「そうじゃそうじゃ、ずるいぞ」
「っせーな、このボケじじいども」
 それでもてんでに匙で卓を鳴らし始めた大人げない老僧たちにククールは薄く切ったパンをもう一枚ずつ付け加えてやり、それからヨダレを垂らさんばかりにしている小坊主にも同じようにして、それでようやく食事は静かに始まった。だがククールは野菜の切れ端の浮いたスープをかきまわしながらも、その思いはともすれば先ほど感じた何かに戻りがちであった。
「おい、坊主。さっき、川の方の庭に出たか?」
 パンにかじりついていた小坊主は不意に尋ねられて、驚いたように首を横に振った。
「怒らねえからさ、本当のところを言ってみろ。あ、それ食ってるあいだは口開くなよ」
 小坊主は、とりあえず口いっぱいにした食べ物を目を白黒させながら飲み込んでから口を開いた。
「お、俺じゃないだ」
「戸、叩かなかったか?」
「いんや、俺、知らん」
「そっか」
 ククールはためいきをついた。そこまで言うならいたずらではないのだろう。
「悪霊だな」
 またスープをかき回し始めたところでふいに横から言われて、ククールは眉を寄せた。老僧の一人がじっとこちらを見ていた。
「どうしてそんなことわかるんだ」
「昔から、戸を叩くのは悪霊に決まっておる。悪霊は中から招いてもらわねば入れんからな」
「――迷信さ。風の音でも聞き間違えたんだろう」
 ククールは肩をすくめ、それでその話は打ち切りになった。
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