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中州の砦は夜明けを迎えようとしていた。その外れ、見張りの丘の上に一人立って、ハレスは長い間感じることのなかった静けさと平和に安らぐ空を見上げた。まだ砦の庭に死者は埋葬されることなく横たわり、その端にはオークの死骸が山と積まれてはいたが、それでも南方から吹く風は穏やかだった。石と泥の小屋はどれも静かで、エダインのうちハレスのほかには目覚めているものもいないだろう。疲れ果て、安堵して眠っているのだ。 対岸にはエルダールの陣が見える。長い三角の旗は朝の風にはためき、旗標の星は黎明にときおりきらきらと光を放っていた。 「――姫」 ハレスは振り返り、柱に手を置いて丘の下を見下ろした。黎明の光の中に、地に降りた明けの明星のごとくエルダールの公子が立っている。公子は脇に吊るした銀柄の剣を淡く輝かせ、優美なエルダールの鎖帷子を身に着けていた。すらりとした姿勢正しいその姿は美しく、背の中ほどまでもある長い黒髪は夜の名残のように波うち、豊かに流れて見えた。ハレスはふと自分の栗色の髪に触れてみた。川の水につかったまま眠ったせいで、馬の尾のように重苦しくとぐろを巻いている。ハレスはひそかに恥じた。 「我らは夜のうちに騎兵を進め、オークどもを南方十リーグまで追い払った。もはやこの森には一匹のオークもおらぬ。見出したハラディンの族のうち、生きているものたちにはこちらに集まり庇護を受けるよう伝えた。死者は」 黙ったままのハレスに構いもせず、カランシアは見張りの丘の斜面を上りながら言った。 「――死者はそれぞれに葬った」 ハレスは頷いた。カランシアはその傍らに立った。 「美しい眺めだ」 中州の砦の見張りの丘は二つの川の交わるところにある。川辺には柳が繁りその背後に濃い緑の森が広がる。今はその森のあちこちで細く煙が上がるのが見えた。 「あれは……?」 「オークの死骸を焼く煙だ」 ハレスは黙って頷いた。 「ここは」ふいに公子が呟いた。「船のへさきのようだな。水を切って進む」 ああ、とハレスは声を上げた。確かにそのように見えた。へさきには水があたり、淡く波頭さえ立っている。二人を乗せてどこまでも行く船だ。 「気付きませんでした。夜毎ここに立っておりましたが、敵の影を求めるばかりで」 「この船は南へと進む」 カランシアが行く手を示すよう、はるかな彼方を指差した。左手に青の山脈がそびえ、その山頂の雪は赤い曙に染まっている。空は黎明の薄青から薔薇色を経て東は真紅に燃え、アルダには新たな朝が廻りつつある。 「南へ。西には至福の地がある、我らエルダールの来し方の地が。東には陸が続くばかり。北には暗黒の山並み。だが南には何があろうな」 「もしかすると……」 ハレスは呟いた。 「西にエルダールの方々の故郷があるなら、南にあるのはエダインの故郷かもしれません」 カランシアが笑った。明るい笑いだった。昨夜、戦場で聞いたのとは違う笑いだった。 エルダールの殿はこんなふうにも笑うのだとハレスは思った。 「エダインの故郷か。だがそうであったとしても、そなたらは覚えておらぬ」 「我らの命は短く、我らの肉体は弱いのです。そして立ち去って戻るものもおりませぬ。その行方を知るものも」 「然り、儚い種族だ」 「ですが、戦場にあってはエルダールの殿もまた死を免れぬと聞いております。この暗い時代にあっては誰もが死と儚さを思うことなしに生きることは叶いませぬ」 ハレスは、カランシアがゆっくりとこちらに顔を向けたのを見た。朝の光は今は地上に及び、カランシアの黒髪に炎の彩りを与えていた。 「――姫よ」 温かな手が触れて来る。頬の上に、そっと。愛撫するように。ハレスは震えた。 「エダインにあなたほど誇り高く、あなたほど命知らずの豪勇の戦士を見たことがない。あなたほど肩に多くの荷を負いながら真っ直ぐに立っているものを知らない」 ハレスはカランシアを見上げ、頬を包むカランシアの手をその手で包んだ。短い沈黙があった。ハレスはカランシアの瞳を見つめていた。そしてカランシアもまたハレスの瞳を見つめていた。朝の光は互いの瞳を星のように輝かせていた。 「そしてあなたの……」 不意にカランシアは言葉を切り、手を下ろし、顔を背けた。 「これより先は言わぬ」 カランシアが低く唸った。その声は擦れ、低く、呪詛にも慙愧に似ていた。美しい顔のなかで眉が厳しく寄せられ、黒い瞳が奥底で燃えあがる。だがカランシアが再びハレスを見たとき、その瞳は経てきた永の歳月を思い起こさせて暗く、眼差しはただ哀しかった。ハレスは何も言わず、手を伸ばしてカランシアの頬を撫でた。カランシアは俯き、やがて目を閉じた。白い額がハレスの肩に置かれ、絹のような髪がこの胸と肩とに流れ落ちた。 |