House of Feanor....

 カランシアは夢を見ていた。マグロールが躊躇なく宣言通りに折った手足の苦痛は酷く、傷ついた体は激しい熱に浸されていた。吹き出て流れ落ちる汗は額に頬に髪を張りつかせ、不快はいやがうえにも増した。夢を見ていた。不快な夢だ。カランシアは、ときおり顎を突き上げるようにしてのけぞり、空気を求めた。水の底か火の中ででもあるかのように。どちらであっても“そこ”よりはまし。
 
 そこ――エレド・ウェスリン!
 
 南北に連なる急峻な山脈は傷ついた軍勢の足を阻んだ。傷つき、それよりも疲れ果て、そして不安に震えていた。背後で得てきたのは勝利であるのに。だが瀕死の床にいるのは軍勢を導いてきた指導者なのだ。いなくなろうとしている――フェアノール、王が、父が。冷涼な風は切り裂くように四方から吹きつけ、父の横たわる急ごしらえの担架を持つ手を凍えさせた。常に堂々と常に力に満ちて先頭に立ってきた父が、いまは目を閉じて力なく横たわり、その身体のいたるところには黒く焼かれた傷がある。
 誰もが黙りこくっていた。傍らを行くすぐ上の兄ケレゴルムは怯えたようにときおり鼻をすすり上げている。ちらと見えた長兄マイズロスは眉をきつく寄せ、蒼白な顔の上に石のような無表情を張りつけている。どこか遠くで末の双子が泣いているのが聞こえた。
 赤黒い地肌を見せた山道は幾度もつづらに曲がり、足の下では粗い砂利が軋んだ。ねじれたような形をした潅木が生え、鎧を貫くような刺のある雑草が地を這うほかは何一つ、何一つない荒れ果てた山だった。温もりをもたらしはしない星々が、凝った暗黒のような雲の隙間にときおり瞬き、陰惨な一行を照らしていた。
 許されるなら足を止めて泣きたかった。だが不安が、父なしでこの異郷に取り残されるという不安がそうさせなかった。足を止めること泣くことは、そのまま父の死につながるように思えて、カランシアはただ重い足を運び、祈る言葉さえないまま唇を噛んでいた。
 峠のひとつで、進軍は止まった。父に付き添ってすぐ横を歩いていた次兄マグロールがふいに手を上げて命じたのだった。それは父の意思なのだろうか? だが何のために?
 無言のうちに旗棹を並べて布を巻いただけの担架が下ろされた。もう、わかっていた。わかっていたが信じたくなかった。マイズロスとマグロールが二人して父を助け起こした。カランシアは膝をつき、弱々しくよろめきながら立ちあがる父をじっと見ていた。
 半ばはマイズロスに、半ばはマグロールに支えられながら、父王は立った。夜の闇よりなお暗い髪が流れ、わずかな間にやつれ果てたその顔にまとわりつく。いつも赤熱する寸前の恐ろしさをはらんでいた瞳は、いまは限りなく空虚に暗く深い洞窟を思わせた。その手がのろのろと上がった。その手の指す方を見てカランシアははっと息を呑む。父がここで停止を命じた理由がわかった。
 暗黒の大地に赤黒い渦を巻いて横たわり蹲るもの。山々の険阻な影を凶悪な牙とする炎。モルゴスの城砦サンゴロドリム――アングバンドの全景が見えた。無数の炎が歪に尖ったその形を照らしだし、恐るべき巨大な全容はなおも恐るべき堅牢さを、そして兵力の無尽蔵と悪意の及びがたく激烈であることを――骨の髄に直接叩きこむ。総毛だった。
 そうとも、モルゴスに挑むことは、マンウェ・スーリモの壮麗なるタニクウェティルの城を攻めることだったのだ。オロメの輝く騎馬兵団に挑戦することだったのだ。大地と天空と海とを創造したものに逆らうことだったのだ。なんという無謀。なんという蛮勇。
 一片の塵よりも己が小さくなったような思いに襲われながら、カランシアは笑いを聞いた。力強く自信に満ちた、情け容赦ない笑い。――カランシアは振り返った。父が、王が笑っていた。頭上からのしかかっていた巨大な重さが取り払われたように思った。この父がいる限り、迷う必要はない。父が間違うはずが――
「聞け」
 だが続いた声は弱々しく、かろうじてごく近くにいた息子たちが聞き取れたにすぎない。激しい苦痛、おそらくは死に至る苦痛に苛まれているのであろう。間近で見る父は死者と紛うほど青ざめていた。カランシアは父が死ぬだろうことを知った。
「――聞け。余は運命を見た。サンゴロドリムはけっして落ちぬ。いかなるノルドの力によっても落ちぬ。我らの誓言は果たされぬ。我らの戦いはついには敗北に終わる。途中に幾つの勝利があろうとも、ついには最後の敗北がそれら一切を押し流すのだ」
 父王はあえぐように息を吸い、いよいよ支える力を失った体を二人の上の息子たちの腕にぐったりと任せた。カランシアの目には、次第に父の身体は内側から焼かれはじめていると見えた。内側から――ウドゥンの暗い火ではない――もっと。
「――余は命じる。誓言を果たせ。果たされぬことを知って言うのだ。――誓言を果たせ。敗北を戦え。生きて勝利を掴むことが叶わぬ――ならば死ね。望みを持たず死を生きよ。汚辱と敗北をして我がものと叫ぶのだ」
 誰も何一つ言わなかった。カランシアは息が詰まるほど恐ろしかった。言われた言葉がではない。父の身体はいまや内側から輝き始めていた。恐るべき火、恐るべき魂の熱が、止め処をなくしてそれを支える肉体を食らい始めていることは明らかだった。
「――父上!」
 マイズロスの叫びが聞こえた。ごうと激しい熱風が周囲をなぎ払い、カランシアは地に伏せた。熱気のさなかに目を開けば、今や形ある炎と化した父が大地を払う威風を纏って立っていた。山々は隈なく照らし出され、頭上の雲もまた赤く燃えた。
「呪われよ、呪われよ呪われよモルゴス!」
 山々はその叫びに根底から揺れ動き大気は震えた。地面に張りついたカランシアの下で砂利が崩れ、身体が沈みかける。とっさに伸ばした手を掴まれ、乱暴に引き上げられた。抱きかかえるようにかばわれた腕の間から、緋と金の恐るべき輝きと熱が食らいつくよう襲いかかる――焼き尽くされる!
 
 カランシアは目を見開いた。青い板の張られた天井を白い格子が支え、閉じたカーテンの隙間から漏れ入った午後の金の光が照り返している。ヘレヴォルンの湖のほとりの館だ。遠く鳥の鳴く声が聞こえた。これは夢ではない。こちらが夢なのではない。カランシアは身体から力を抜いた。
「……」
 まだ手足の痛みは辛かったが、よほど長い間眠っていたのだろう、鈍い痛みに変わっていた。何度か侍従が来たのだろう、寝台の傍らには小ぶりの桶に水がたたえられており、寝巻きも記憶にあるものとは違っている。額にじっとりと滲んだ汗が乾いてゆくのを感じながら、カランシアは目を閉じた。
 父が逝きモルゴスの計略にかかって長兄マイズロスを一時欠いた。アマンに置き去りにしたはずの叔父と残りの民とはからずも再会した。マイズロスは従兄弟フィンゴンにより救出され、マイズロスは王冠を叔父フィンゴルフィンに譲った。フェアノール王家は東ベレリアンドに領土を置き、モルゴスの本拠アングバンドは包囲された。
 だが、と、カランシアは考える。だがモルゴスとの戦いは行われず、アングバンドへの出陣は行われず、いたずらに時ばかりが過ぎてゆく。マイズロスとマグロールは戦うなとカランシアに命じ、二三度その命令を無視して止められ――そしてあげくがこれか、と、カランシアは苦々しく砕かれた手足の骨を思う。
「――呪われろ」
 マグロールの顔を思い浮かべてカランシアは低く唸った。誓言を眠らせていると考えることが苦痛だった。今すぐただ一騎でもサンゴロドリムに乗りつけ、せめて殺されるまで戦いたかった。マグロールとマイズロスの二人が揃って叔父の宴に出かけると聞いたとき、さてこそと思ったのに。なのにこうして無為を囲っているとは!
 寝返りさえ打てずカランシアはきつく目をつぶった。父の最期を思い返した。あの熱と光とが父の魂であったなら、おそらくはマンドスに向かったのだ。海と空を駆けて。声に出さずに父の名を呼び、許しを請う。無為に横たわって誓言を眠らせていることを、敵と戦って傷ついたのではないことを、まだここに生きていることを――どうか。
 再び眠気が満ちてきた。傷を負った体は回復のためにすべての活動の停止を求めている。カランシアは薄れてゆく意識のなかで、あのとき自分をかばったのはマグロールの腕だったということを、ふと――望まないのに――思い出した。それきり眠りに沈んだ。
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